城下町のうちの町人町は、町八町(まちはっちょう)(松代八町)とよばれる。町八町は北国街道(松代通り)沿いに、西の清野(きよの)村から入って東へ馬喰(ばくろう)町・紙屋(かみや)町、紺屋(こんや)町、北へ直角に折れて伊勢町・中町・荒神(こうじん)町とつづき、東寺尾(ひがしてらお)村へぬける。中町の東裏通りに鍛冶(かじ)町・肴(さかな)町がある。
町人町も真田氏入封(にゅうほう)以前にできていたが、具体的なようすははっきりしない。中世に東条(ひがしじょう)氏が築いた尼巌(あまかざり)城(松代町東条)の城下から肴町などが移されたという。武田氏は海津城下に町割りをして商工業者を集めた。真田時代の最有力町人の杭全(くまた)・八田(はった)・伴(ばん)家は、それぞれ武田氏との関係で河内(かわち)(大阪府)・甲斐(かい)(山梨県)・近江(おうみ)(滋賀県)から移り住んだと伝えている。
町八町では、町奉行所の支配下に自治がおこなわれていた。町役人として、八町全体に町年寄(まちどしより)と検断(けんだん)、各町に肝煎(きもいり)(のち名主(なぬし))・長町人(おとなちょうにん)がおかれた。町年寄は八町全体を統轄(とうかつ)する。家格・財力ともぬきんでた町人から四人ほど藩が任命した。杭全家・八田家などがなることが多く、杭全家は北国街道松代宿(じゅく)の問屋(とんや)もかねた。八田家は酒造業などで巨富を積み、御用達(ごようたし)商人として藩財政を支えた。検断は伴家が勤めることが多かった。各町の町役人は当初町奉行所の人選、任命だったが、のちには町民の入札(いれふだ)(選挙)によって選ばれた。
町八町は自治町として多彩な活動をする。火消し活動はその代表的なものである。藩の指示もあって各町は火消し道具として大纏(おおまとい)・小纏・大綱・長鎌(ながかま)・手鎌・梯子(はしご)・斧(おの)・掛矢(かけや)・手桶(ておけ)・水籠(みずかご)などを常備し、自身番(じしんばん)を交代で勤めた。いざというとき町役人の指図で出動する火消し人員がきめられ、その人数ぶんの腰札(こしふだ)も用意されていて出動のとき身分標識として身につけた。
町八町が全体でおこなう自治的な営みもあった。伊勢町にある祝(ほうり)神社の祭礼はそのひとつで、侍町のほうは白鳥(しろとり)神社を町々が連合して祭るのにたいし、町八町が共同で祭るのは祝神社(祭神は諏訪上下神)であった。享保(きょうほう)二年(一七一七)、天明八年(一七八八)の松代町大火で焼亡(しょうぼう)するが、八町町人の勧化金(かんげきん)により再興された。
町人町の最大の祭礼は天王(てんのう)(祇園(ぎおん))祭で、東条村池田宮(いけだのみや)(王依比売命(たまよりひめのみこと)神社)の神輿(みこし)を中町の仮屋へ迎え、八町の華麗なねり物、家中の美々(びび)しい駈馬(かるうま)などが繰りひろげられ、藩主や家臣たちも町々の桟敷(さじき)で観覧する。祭礼の最後は城の大御門前でおこなう大門(おおもん)踊りが締め、官民共催のおもむきがあった。
町八町は、屋敷の地子(じし)(年貢)免除をうけ町人身分を保障されるかわりに、町ごとに藩の役儀(やくぎ)(諸役)を負った。馬喰・紙屋・紺屋三町には、紙屋町の御紙役銀(おんかみやくぎん)、紺屋町の御城畳縁(おしろたたみべり)染めといった各町固有の役儀があった。初期に町の名前のように職人が集往していたときからの役儀であろう。ほかの五町はほぼ共通する二十余種の役儀を負い、中心は御用伝馬役(ごようてんまやく)であった。うち肴町は塩・海産物営業を独占した名残(なごり)として、御役塩(おやくじお)をまとめて上納する。役儀は、町人が屋敷の間口間数(まぐちけんすう)に応じて負担した。寛文(かんぶん)十一年(一六七一)の町間帳(ちょうけんちょう)にみられる間口間数は八町あわせて二四〇〇間余で、これを四〇五軒で負担する定めであった。一軒ぶん負担する町人を本役(ほんやく)、半軒のものを半役(はんやく)といったが、江戸中・後期に分割譲渡されて屋敷の細分化がすすむにつれ、四半(しはん)役(四分の一役)から一〇分の一役まで増えてきて、町人の上下格差がひろがる。それでも役儀負担者は正規の町人身分だが、藩役儀負担とは縁がなく町役(まちやく)だけを負う借屋(しゃくや)・借地(しゃくち)・裏借屋(裏通りの借屋)も増えてくる。
町八町の人口は、寛文十一年のおよそ二〇〇〇人から安政七年(万延元年、一八六〇)の二八六五人へと増すが、安政七年には借屋・借地・裏借屋が八三〇人にのぼり、人口増はおもに正規町人でないものの増加によっていた。増えてはいるが、町八町の人口増加度は諸城下町や善光寺町とくらべて小さい。しかし、松代町には町八町とは別に、武家屋敷の長屋、侍(さむらい)町の一角、寺社境内地、隣村の町続き地などに住みつくものがいた。藩はこれを「町外町(ちょうがいまち)(町外)」として把握した。町外町はしだいに増加し、慶応三年(一八六七)には、いろは三五組に分けられ、七一〇軒、二七一〇人いた。町外町の住民は町人身分ではなく、藩の直接支配下におかれる。幕末期の松代町の人口は、武家(ぶけ)(中間(ちゅうげん)などをふくむ)の約四五〇〇人、町八町の約二九〇〇人、町外町の約二七〇〇人、全体で一万人ほどであった。