武士の学芸と文化

234 ~ 235

真田信之は上田から松代に移されたとき、京都の小野お通(おののおつう)にあてて、「そもじ様はいにしへわれらをも御覧(ごろう)じ候御心有(ある)御人さまにて候まま、心のまま申(もうし)候」(濁点付す)と、思慕と真情のあふれる手紙を書いた。お通は、公家(くげ)の伝統文化を最高水準でうけつぐ教養ゆたかな女性であった。近世前期の高度な文化は上方(かみがた)にあったが、信之は戦国を駆けぬけた武人(ぶじん)であると同時に、上方文化をぞんぶんに享受(きょうじゅ)していた。連歌(れんが)に堪能(たんのう)で、上田時代に妻小松姫、子の信吉(のぶよし)・信政(のぶまさ)や家臣ら一四人の連衆(れんじゅ)で「夢想披(ひら)きの連歌」を巻いている。囲碁(いご)の妙手(みょうしゅ)としても知られ、本因坊(ほんいんぼう)とも対局している。藩士にも、のちのちまで囲碁の上手(じょうず)がでた。


写真93 真田信之の小野お通への手紙(部分)
(真田淑子『小野お通』)

 歴代藩主にも学芸を好むものが多い。二代藩主信政は初代の娘の二代目小野お通を妾(しょう)としたが、そのお通を介して八橋流箏曲(やつはしりゅうそうきょく)が松代に伝えられた。三代藩主幸道(ゆきみち)は観世(かんぜ)流の名人西村三郎兵衛を召し抱え、藩士にも能楽(のうがく)・謡曲(ようきょく)の愛好家が増す。五代信安(のぶやす)は富一(とみいち)・沢一(さわいち)という二人の座頭(ざとう)を抱え、三味線(しゃみせん)が流行する。幸道のころ藩士菅杢右衛門(もくえもん)が池の坊の門下として挿花(そうか)をひろめ、信安のころから石州(せきしゅう)流・遠州(えんしゅう)流の茶の湯も入った。和歌は早くから普及したが、六代幸弘(ゆきひろ)・七代幸専(ゆきたか)・八代幸貫(ゆきつら)は和歌や俳諧(はいかい)を好んだ。隠居した幸専五十の歳賀(さいが)にあたり、幸貫は「梅花に寄す」の題で歳賀を祝う和歌・俳諧を家中・領民から募っている。

 藩が元禄信濃国絵図(くにえず)を作成したころから、郷土研究や和算(わさん)に関心をいだく人びとがでる。郷土研究では落合保考(ほこう)が『つちくれ鑑(かがみ)』、竹ノ内軌定(のりさだ)が『真武内伝(しんぶないでん)』を著(あらわ)した。和算では宮本正之(まさゆき)が京都で宮城(みやぎ)流の始祖宮城清行(きよゆき)に学び、信州宮城流の祖となる。門人の藩士入庸昌(いりつねまさ)は『角総算法』などを著し、のち町田正記(まさき)・海沼義武(かいぬまよしたけ)らは最上(さいじょう)流をひろげる。領民でも下氷鉋(しもひがの)村(稲里町)の東福寺泰作(とうふくじたいさく)、鬼無里(きなさ)村の寺島宗伴(そうはん)らが多くの門人を育てた。

 真田幸貫は文武両道を熱心に奨励した。諸武芸の「殿様御覧」をしきりに開催し練達者を褒賞した。また藩校建設を志し、文武学校の建設をすすめさせた。幸貫没後は孫の九代幸教(ゆきのり)が継ぎ、安政二年(一八五五)開校式が挙行された。幸貫は英才の養成と登用も積極的にすすめ、佐久間象山やフランス学の村上英俊(えいしゅん)をはじめ人材が輩出した。絵師で幸貫の密使も務めた三村晴山(みむらせいざん)、西洋砲術の金児忠兵衛(かねこちゅうべえ)などもいる。幸貫はまた、真田家の歴史が虚説にまみれているのを嘆き、河原綱徳(かわらつなのり)に命じて『真田家御事蹟稿(おんじせきこう)』を編さんさせている。