本丸北がわ(搦手(からめて))の出入り口は、櫓門の北不明門(きたあかずもん)と表門の桝形門の二門で構成される。発掘調査ではこの北不明門と桝形門の建物礎石の確認、および桝形石垣とその石垣に登る階段を確認した。
調査で検出した建物礎石からは、享保二年(一七一七)の火災以後に再建された北不明門と桝形門の建物関係が判明した。虎口は、整備前ほぼ平らに埋め立てられていたが、桝形門の礎石が北不明門の礎石よりも一メートル近く低い位置に発見されたため、桝形門から本丸に向かって急勾配の上り地形であったことがわかった。また、虎口北面石垣は、現地表から下に三メートル以上つづいており、石垣を築いた当初の松代城は、千曲川にそびえ立つ高石垣の城であったことが想像される。今回の整備では、千曲川改修後の曲輪(くるわ)を整備しているため、石垣は地中に埋め戻(もど)している。
北不明門は、太鼓門のように石垣と石垣に渡る櫓門ではなく、独立型の櫓門であったことが絵図や発掘調査からわかっている。独立型の櫓門は、弘前(ひろさき)城や小諸城など全国に数例しか現存しておらず、近世城郭でありながら中世の城門のような景観を残した門といえる。