寺領の成立

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弘治(こうじ)二年(一五五六)の第二回川中島合戦のあと、武田信玄(しんげん)は善光寺如来と仏具・僧侶(そうりょ)を甲府へ移した。以来、善光寺如来は流転(るてん)を重ね、慶長三年(一五九八)八月豊臣秀吉が死の前日に奉還させてようやく旧地へもどった。この間、善光寺とその門前町は衰微をきわめていたが、慶長四年に北信濃に蔵入地(くらいりち)をもつ豊臣秀頼(ひでより)が如来堂(にょらいどう)(本堂)を再建し寺領を寄進したといわれ、善光寺と門前町の復興がはじまる。

 慶長六年七月、前年の関ヶ原合戦で覇権(はけん)をにぎった徳川家康は善光寺に寺領一〇〇〇石を寄進した。ついで同年九月、家康の重臣大久保長安らが寺領割り目録を出し、寺領を長野村・箱清水(はこしみず)村・七瀬川原(ななせがわら)村および三輪(みわ)村の一部分と定めるとともに、朱印領一〇〇〇石の配分をきめた。善光寺一山は、大勧進(だいかんじん)(天台宗)と大本願(だいほんがん)(浄土宗)の二寺と、衆徒(しゅと)・中衆(なかしゅう)・妻戸(つまど)の三寺中(さんじちゅう)(院坊(いんぼう))で構成される。寺領のうち三〇〇石は伽藍(がらん)修復のための造営免(めん)とされ、大勧進と大本願に一五〇石ずつ分けられた。このほか、大勧進には仏事の灯明(とうみょう)免・仏供(ぶっく)免各一二〇石と知行分一〇〇石があたえられ計四九〇石、大本願には知行分五〇石と大工(だいく)免三六石が加わり計二三六石であった。三寺中には、衆徒二一人に一六八石、中衆一五人に七五石、妻戸一〇人に三一石が配分された。

 慶長八年十一月には朝日(旭)山(あさひやま)が善光寺造営料所(ぞうえいりょうしょ)となり、大峰山(おおみねやま)とともに堂舎造営のときに利用される。その管理のため、のち松代領小柴見(こしばみ)村(安茂里)から分けた平柴(ひらしば)村を善光寺領とし、三輪村分を松代領に移した。

 寛永二十年(一六四三)天海(てんかい)は善光寺に命じ、自身が創建し徳川家廟所(びょうしょ)とした東叡山(とうえいざん)寛永寺(天台宗)の直末(じきまつ)とした。一山に二宗二寺の善光寺では、大勧進と大本願が対立しがちだったが、寛永寺に直属したことから大勧進の山内での比重が増し、寺領行政の実権も大勧進代官がにぎるようになる。なお、善光寺は早くから松代藩に外護(げご)されていたが、天和(てんな)二年(一六八二)日光輪王寺門跡(にっこうりんのうじもんぜき)(寛永寺住職)が松代藩主に「御領分同様の町人・百姓仕置(しおき)」を依頼した。藩は、善光寺領と飯縄(いいずな)神領・八幡宮(武水別(たけみずわけ)神社)領を「御支配三ヵ所」としてその領政に関与する。


写真98 善光寺大勧進