本堂再建と出開帳

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善光寺は雷火や火災で何度も焼失した。寛文(かんぶん)元年(一六六一)に如来堂(本堂)の仮堂(かりどう)が建てられたが傷みがすすみ、元禄五年(一六九二)から本格的な本堂再建計画がはじまる。この再建は、善光寺が自力ですすめて火災で挫折(ざせつ)する前半と、幕府が介入して完成にいたる後半との、二段階にわたる。

 元禄五年四月、大本願・大勧進と三寺中惣代(そうだい)は連名で、寛永寺の添簡(そえかん)をつけて幕府寺社奉行所へ願書を出した。「善光寺は三国伝来の阿弥陀如来(あみだにょらい)の霊場で、往古は七堂伽藍(しちどうがらん)がそろっていた。中古(ちゅうこ)には源頼朝公(よりともこう)御再興、別して権現(ごんげん)様(家康)には寺領の御寄進をいただいたが、数度の火災で諸堂退転(たいてん)、今は本堂も仮堂ゆえ大破し、宝塔・楼門(ろうもん)などは礎石を残すのみである。三都(さんと)(京・大坂・江戸)で開帳(かいちょう)し、その奉加(ほうが)金で再興したい」と願い、許可を得た。こうして前立(まえだち)本尊・御印文(ごいんもん)・本田善光(よしみつ)と妻子の三卿(さんきょう)像(文化21頁43)などを奉じ、元禄五年江戸、同七年京都・大坂で出開帳(でがいちょう)を催した。どこでもたいへんな盛況で、二万八千両余の収益をあげて再建にとりかかった。

 まず、門前町から類焼しないよう本堂を北へ移すこととし、北之門町を城山(じょうやま)下へ移転させ、ほぼ一〇〇間四方、一万坪の新敷地を造成した。設計図は善光寺大工が描いた。桁行(けたゆき)二九間三尺二寸、梁間(はりま)一三間七寸二分、高さ九丈五尺で、のちに完成する現存の本堂とほとんど同一である。用材は松本領の中房山(なかぶさやま)(南安曇郡穂高町)などから伐(き)りだし、犀川(さいがわ)を筏(いかだ)に組んで流し、丹波島(たんばじま)(更北)から裾花(すそばな)川をのぼり九反(くたん)(中御所)で陸揚げして運んだ。工事は順調にすすんだが、元禄十三年に町家(まちや)から類焼し、建築中の本堂も集積した木材も灰塵(かいじん)に帰した。


図18 善光寺境内略絵図(大門町 蔦屋伴五郎出版)
(県立歴史館蔵)

 再建を危(あや)ぶんだ幕府は、実力者柳沢吉保(よしやす)の甥(おい)という慶運(けいうん)を大勧進別当(べっとう)に送りこみ、また松代藩に援助を内命する。慶運は不信の念をいだいて善光寺役人を造営事業から遠ざけ、自身の強力な指揮のもとにすすめた。まず江戸で六〇日間の出開帳をおこなったが、前回から間もないためはかばかしくなかった。そこで、寺社奉行所の許可をとりつけ日本国回国(かいこく)開帳に踏みきった。元禄十四年九月の上総(かずさ)(千葉県)からはじめて宝永三年(一七〇六)八月まで五ヵ年間、みすがら全国をまわった。奉加金は回国先から松代藩へ送り、預け金二万三千両余になった。

 慶運一行の回国中にも、松代藩の監督のもとに造営工事は進展した。松代藩からは藩主名代(みょうだい)格の小山田平大夫(おやまだへいだいふ)以下四四〇人が乗りこみ、小屋を建てて寝起きした。

 建築工事は、慶運から頼まれて幕府御用大工棟梁(とうりょう)の甲良宗賀(こうらそうが)が総括した。宗賀は前回の設計図をやや簡略化した設計図を描き、現地棟梁に弟子の木村万兵衛(まんべえ)らを送りこんだ。木村は用材確保に信越の深山を見てまわり、主として千曲川上流の佐久郡南部の山々から伐りださせた。その製材には地元大工も総動員し作業を進捗させた。宝永二年四月、江戸から甲良宗賀らもきて「如来堂御事始(おんことはじめ)」の儀式がおこなわれた。翌三年暮に一〇八本ある柱を建てはじめ、宝永四年四月に屋根の栩葺(とちぶ)き(厚めの板葺き)を開始するという急ピッチですすめ、同年七月に工事は落成した。八月十三日に西町西方寺(さいほうじ)に遷座(せんざ)していた如来が迎えられ、翌十四日「御堂御供養」が営まれて新本堂は完成した。

 このあと、寛延(かんえん)三年(一七五〇)に三門(山門)(さんもん)、宝暦二年(一七五二)に仁王門(におうもん)、同九年に経蔵(きょうぞう)が完成した(仁王門は二度焼失し、現存するのは大正七年(一九一八)再建)。さらに、ふたたび回国出開帳をおこない、五重塔再建を幕府に出願したが、寛政十三年(一八〇一)復興でなく新規造営とみなされ不許可となった。


図19 弘化4年(1847)御開帳繁昌の図 この開帳中に善光寺地震がおこる(永井幸一『地震後世俗語之種』(真田宝物館蔵))