善光寺参りと権堂の水茶屋

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全国津々浦々(つつうらうら)の庶民にまで善光寺信仰が浸透したのは、各地で人びとが熱狂的に群参した元禄・宝永の回国出開帳を契機としてであった。以後、善光寺参りの男女が増大する。とくに女性の多いことは善光寺参りの大きな特色である。東西南北から信濃へ入る道はすべて善光寺道となり、路傍(ろぼう)に善光寺を指ししめす道標(どうひょう)が立てられた。

 江戸後期になると、善光寺の出開帳計画にたいし、三寺中(さんじちゅう)(院坊)や大門町の旅籠屋(はたごや)が反対するようになる。出開帳をすると善光寺参りの客足がにぶり収益にひびくからであった。しだいに、出開帳よりも善光寺でおこなう居開帳(いがいちょう)(御回向(ごえこう))に重点が移った。居開帳の最初は享保(きょうほう)十五年(一七三〇)で、これは念仏堂で日夜やむことなく唱(とな)えつづける常念仏(じょうねんぶつ)が二万日に達した機会におこなわれた。これをふくめ、出開帳の完了、堂舎修復の完成、常念仏日数の区切りなどを機に、居開帳は江戸時代に一五回おこなわれ、回を重ねるたびに盛況となった。

 三寺中の院坊は、居開帳のときはもちろん、ふだんでも信者を宿泊させ、本堂・諸堂順拝や本堂でのお籠(こ)もり、御印文(ごいんもん)頂戴などの世話をするとともに、全国各地に善光寺講(こう)を組織した。院坊には知行や本堂賽銭(さいせん)の分配金などもあるとはいえ、講の志納金や宿泊・食事代などの収益が大きかった。このため、檀那(だんな)や講を奪いあいがちだったが、明和(めいわ)年間(一七六四~七二)ごろ諸国の檀那場を郡単位で院坊に割りふり、持ち郡が定まった。

 院坊のほかに、大門町の旅籠屋(はたごや)と東之門町などの木賃宿(きちんやど)も参詣人を宿泊させた。院坊と旅籠屋、旅籠屋と木賃宿のあいだには、それぞれ参拝客をめぐり幾度も紛争が生じた。旅籠屋が御印文頂戴を世話したり盛んに客引きするのを、院坊は権益侵犯として善光寺役所へ訴える。旅籠屋がわも宿駅伝馬(てんま)を果たすのに収益が必要と反論し、院坊の宿屋まがいの客引きを非難した。木賃宿は嘉永(かえい)二年(一八四九)東之門町に二六軒あったが、旅籠屋仲間の訴えによりきびしい制約をうけた。

 旅籠屋にとって別に、強力な商売がたきとなったものに権堂(ごんどう)村(鶴賀権堂町)の水茶屋(みずちゃや)(遊女屋)があった。権堂の水茶屋は一八世紀末から繁盛(はんじょう)しはじめ、文政(ぶんせい)十二年(一八二九)三〇軒、天保(てんぽう)二年(一八三一)抱え女二三八人、同十五年(弘化元年)三四軒となる。大門町は再三取り締まりを訴え、三四軒以上の開業は禁止された。また、嘉永三年(一八五〇)水茶屋への宿泊も禁じられるが、争いはなお尾を引く。


図20 権堂村の水茶屋 (『諸国道中商人鑑』)