近世は、その前期に新田開発が進められ、中期からは品種・肥料・農具などの改良や商品作物の普及によって、農業生産が大きく発展した時代である。市域での農業生産の舞台は善光寺平と西部山間部で、「里方(さとかた)(里郷)」・「山中(さんちゅう)」とよばれた地域である。農地が安定的に経営できるためには水の安定供給が不可欠で、山中では湧水(ゆうすい)や沢水・溜池(ためいけ)などが、里方ではおもに用水堰(せぎ)が利用された。
善光寺平の水源は犀川(さいがわ)と裾花川(すそばながわ)が中心で、犀川からは川中島に犀口三堰(さいぐちさんせぎ)といわれる上(かみ)堰・中(なか)堰・下(しも)堰と小山(こやま)堰を中心とする水路網が展開し、裾花川からは鐘鋳(かない)堰と八幡(はちまん)・山王(さんのう)堰を中心とした水路網が広がっていた。そのほか千曲川や、千曲川左岸の浅川、右岸の保科川など中小河川を利用した堰があった。
松代領では郡(こおり)奉行とは別に道橋(みちはし)奉行が用水の支配をおこない、施設の見分や堰の開発・修復、さらに水論(すいろん)の処理などを担当した。多数の村々に関係する堰には堰守(せぎもり)を任命し、堰組合村々の関係調整にあたらせた。この堰守は、犀川三堰・小山堰・鐘鋳堰におかれたが、八幡堰にはおかれていない。八幡堰は別名島津堰ともよばれるように太田荘の地頭島津氏により開発されたとみられ、流末の長沼五ヵ村が触元(ふれもと)として特別な権限をもっている。
堰はどこでも、毎年補修をしなければ土砂の堆積により埋まってしまう。そのため田への引水前の春先に掘りあげる作業(春普請(ふしん))がおこなわれた。八幡・山王堰に関係する村は「川北(かわきた)三五ヵ村」とよばれたが、この三五ヵ村で取水施設と幹線水路の維持管理がおこなわれた。幹線水路から分かれる枝堰(えだせぎ)は長沼組合・栗田組合・梁手(やなて)取り組合といったそれぞれの用水組合村々が普請と管理をおこなった。さらに、各村内の水路は各村で自普請をおこない管理した。
用水堰はいくつかの分水点を経由して網の目のように広がっているので、水がつねに十分届くとは限らない。そのため、とくに降水量の少ない渇水(かっすい)時にはしばしば分水をめぐり争論(そうろん)(水論)が発生する。多くは内済(ないさい)(示談)で解決されるが、命の水にかかわる問題だけに紛糾することもある。文化十年(一八一三)に北尾張部村(朝陽)が「寛政年中(一七八九~一八〇一)より水論が長引き、多額の出費に難渋している」と述べているように、波状的に繰りかえされ長期化することもあった。
農業生産の発展を支えたものに入会山(いりあいやま)がある。近世の田畑の中心肥料は草や木の葉をすきこむ刈敷(かりしき)であった。その刈敷に薪(たきぎ)や建築用材などの採取も加わり、入会山の確保は村々にとって重要な問題であった。
入会山には村中入会と村々入会がある。前者は一村の百姓全員が利用するものであり、後者は複数の村々が入り会う。村々入会には、入会できる権利証明として山札(やまふだ)を必要とする入会山と、山札のいらない入会山とがあった。松代領では山札は藩が発行し、山札を点検する百姓の責任者(山札見(み))も藩が任命した。
市域の村の入会山を見ると、飯縄(いいずな)山七五ヵ村、黒姫山九五ヵ村、三登山(みとやま)五五ヵ村など多くの村が入り会っている山がある。山が大きくすそ野も広く、草や薪を手に入れるには都合がよい山々であった。そのほか、保科山(若穂)・関屋山(松代町豊栄(とよさか))・横山(信更田野口)・洗馬(せば)山(真田町)などがあった。利用する平坦(へいたん)部の村々から、これらの入会山はかなりの距離がある。しかし、それでもなお、刈敷や薪を求めて足を延ばしていった。
この大切な入会地になんらかの利用障害が起こると山論(さんろん)が生じる。とくに小百姓の自立が進み、多肥投入の集約的農業に励むようになる一七世紀末から一八世紀に、山論が多発した。その一つに戸隠山神領衆徒(しゅうと)・上野(うえの)村(戸隠村)と、松代領葛山(かつらやま)七ヵ村・飯縄神主との寛文・明和・天保と三回にわたる飯縄山論がある。飯縄山の境界争いであるが、主要は飯縄原(上ヶ屋)の領有争論であった。寛文十一年(一六七一)の裁許では、室町期の縁起にある戸隠山神領の「四至榜示(しいしぼうじ)」(境界標識)を認め、飯縄山は全山戸隠神領となった。明和五年(一七六八)の裁許では、領域は戸隠神領としたが草刈り場としては葛山七ヵ村の権利を認めた。さらに天保十三年(一八四二)の評定所(ひょうじょうしょ)裁許により、寛文裁許が破棄され、飯縄山は飯縄神社の支配とし、戸隠神領、葛山七ヵ村入会境、飯縄山七五ヵ村入会境が確定した。こうした山論は生産と生活を揺るがす重大事であり各入会山におこる。