江戸時代の農業生産の向上は、主穀の米の品種改良や農具の進歩とともに、商品作物の生産や蔬菜栽培(そさいさいばい)の多様化などによりもたらされた。市域では一八世紀半ばには木綿の栽培が広がり、松代藩からは年貢金にあてる「金納第一の作物」として認知されていた。また蔬菜類もその種類を増やし、たとえば天保(てんぽう)二年(一八三一)、東福寺村(篠ノ井)の小林家ではナスを売り、銭二貫四五二文の収入を得ているように、自給だけでなく町場へ売りだされてもいた。こうした作物の生産を支えたものに肥料がある。古くから利用されている刈敷だけでなく、近世後期には購入肥料である金肥(きんぴ)の利用が増大する。菜種生産が増えるにともなって種粕(たねかす)が金肥として利用されるし、蔬菜の栽培が増えることで下肥(しもごえ)(人糞尿)の利用が増加した。
町方で家主の収入の一つとなっていた下肥は、木綿・蔬菜はじめ多くの作物にとって欠かせない肥料となった。そのため需要の増大にともないその価格が上昇し、文政八年(一八二五)には善光寺町で大きな騒動に発展した。
この年の十二月、善光寺周辺の三六ヵ村の代表者が新田町の茶屋に集まり、話し合った。近年善光寺町の大小便の価格が上昇し、やりきれないため価格の取り決めをしたのである。この取り決めに加わった村は、善光寺領・幕府領・松代領など、支配を越えていたが、共通の経済的利益のために結びついた。とくに善光寺八町三ヵ村とひとくくりにされる箱清水・七瀬・平柴(ひらしば)三ヵ村も、他領の村方と行動をともにしていることが注目される。善光寺八町と事を構えてでも、下肥の価格を下げたかったのである。
取り決めによると、大便では金一分につき六荷(か)(二斗五升入れ)、人別とする場合は一人につき銀五匁(もんめ)、小便では銭一〇〇文につき三荷、人別では一人につき二四八文とした。これをもって善光寺町と交渉に入ったが不調に終わり、翌文政九年二月に三六ヵ村では「桶留(おけどめ)」つまりくみ取り拒否に出た。そのため松代町の郷宿(ごうやど)が仲介に入るなど解決の方法が模索されたが、町がわも簡単に要求をいれず、膠着(こうちゃく)状態となった。しかし農作業がはじまり下肥が必要な二、三月となると、村方から取り決めを破るものが出てきた。そうした動きもあり、四月に和談が成立した。その内容は次の二点である。
①七月まで肩荷で取り引きの分は、大便金一分につき六荷、小便は銭一〇〇文につき三荷とする。
②八月からは、従来取り引きされていた価格の、肩荷は一割下げ、人別は九掛けとする。
このうち、②が主要な点で、①は村方の要求をいれた形をとり期限付きとした。②の従来取り引き価格とは、人別でみると大便六匁、小便三〇〇文で、その九掛けは村方の要求より高くなる。つまりこの和談では供給がわの町方が有利となっているのである。その背景に村方の商品作物栽培が下肥を利用せずには成り立たない構造となっていたことをみることができよう。こうした下肥騒動は信濃の他領や江戸でもみられるもので、生産が向上し、貨幣を日常的に使う生活が浸透することで、生活全体が変化したことの象徴的(しょうちょうてき)事件であるといえよう。