木綿・菜種と醸造業

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戦国時代以降日本でも栽培されるようになった木綿は、その吸湿性(きゅうしつせい)や保温性の良さ、加工や染色のしやすさから急速に広まって麻にとってかわり、「衣料革命」とよばれるほどであった。信濃でも一八世紀に入ると栽培が始まり各地に広がっていった。市域では更級・埴科郡下や高井・水内郡の南部に多く、畑だけでなく田木綿(たもめん)とよばれ水田にも広がっていった。


写真102 綿の実 (古牧南長池)

 岡田村(篠ノ井)の寺沢家に残る「農業耕作萬覚書帳(のうぎょうこうさくよろずおぼえがきちょう)」によると、木綿の蒔(ま)きつけは八十八夜前後で、一俵とるために、綿実一貫匁が蒔(ま)かれた。手入れも重要で、種粕(たねかす)に下肥(しもごえ)を混ぜたものを三回あたえている。収穫は秋の土用前から十一月の終わりまでつづく。しかし、かならずしも予定どおり収穫できるとは限らず、日照りで枯れたり長雨で玉腐れとなるなど、そのつど検見(けみ)願いが出されていることが松代藩「勘定所元〆(もとじめ)日記」から知られる。

 収穫された木綿は、綿実(種子)を取りのぞき、繰綿(くりわた)に加工される。その後、自宅で糸から布にまでするものもあるが、繰綿のまま仲買人に売られたり、糸にまで加工して売り渡されるものなどがあった。除去された綿実は油に絞られ、残り粕は肥料とされた。木綿製品の多くが善光寺町にもちこまれ、善光寺門前の市(いち)で取り引きされたことから「善光寺木綿」と称されて特産品化した。

 木綿と同様に商品作物として広く生産されていたものに菜種がある。一八世紀に生産が広がり、高井郡を中心に善光寺平一帯で生産された。畑作の裏作としてつくられる菜種は、明治初年では三石前後の村から三五〇石をこえる村まで幅はあるが、現長野市域全体で四九三〇石余が生産されていた。油は灯火や食用などに利用される。とくに照明用の油は庶民までいきわたり、生活時間が夜まで延びたことで、夜なべ仕事も増えるといった暮らしの変化をもたらす。村々で生産された菜種は油屋に集められ、油絞り・販売がなされた。油屋仲間は、原料仕入れ・販売などの規定を設けて独占をはかる。こうした仲間から油を買い入れ、さらに遠方に売りだす商人もいた。一般に油屋が油絞りと販売を一手ににぎるなかで、善光寺町周辺では油絞り職人が油屋から独立して仲間をつくり手間賃を決めていた。油を絞ったあとの種粕は最良の肥料となり百姓に買いもどされ田地に投入されていく。この菜種や前述の木綿栽培は、多くの加工業を発達させ輸送業も盛んにするなど、貨幣経済発達の一翼をになっていた。

 醸造業では酒造りがその規模、領主とのかかわりで重要であった。酒造は米を大量に消費する。そのため、幕府や藩は米の需給や相場を操作するため酒造統制をおこない、「酒造株」を設定し酒造量を管理した。天明四年(一七八四)には飢饉(ききん)に対応するため幕府領では酒造半減令が出されたが、松代領では年貢金納値段の基準になる米相場を高く維持するためむしろ酒造を奨励した。このように、米の相場は領主にとって最重要課題であった。この松代領の相場維持策は山中騒動の一因ともなった。また、年貢の金納化が進むと、米を売って換金し年貢を上納する村では酒造制限に反対する場合もあった。

 松代領の酒造をみると、初期は町場に多かったが、元禄期(一六八八~一七〇四)ころには町には大酒造人のみが残り、しだいに在方での酒造が増加してくるのが全体的傾向である。酒造が概観できる文政十年(一八二七)のようすをみると、松代町で一三人・二五三九石余、在方では二九ヵ村三九人・七九〇八石余、うち現長野市域は一六ヵ村一九人・一八七八石余であった。松代町の場合、元禄十年(一六九七)のとき、酒造人三〇人・八三一石余であったので、一八世紀から一九世紀初めの酒造量の増加はいちじるしい。この間には、享保・文化期の米価安(やす)に対応して酒造積極策が打ちだされた時期をふくみ、途中に天明飢饉時の減石(げんこく)はあったが総じて酒造高は増大してきた。世の中全体に酒を飲む機会や場所が増えてきたのである。

 微生物を相手とする酒造りは微妙な加減が必要で、一定の味の酒をつくることがむずかしい。そのため、異常発酵(はっこう)や雑菌の混入をおさえやすい冬場の寒(かん)造りが中心になる。一定の味ができると銘柄(めいがら)を付けた酒も登場する。天明~享和期(一七八一~一八〇四)に松代町菊屋八田家では黄菊・初霜・白菊・寒菊といった銘柄の酒が売られていた。