千曲川・犀川にみられる魚は、鮎(あゆ)・ウグイ・オイカワ・鯉(こい)・鮒(ふな)などであるが、食糧資源として原始・古代から重要視されたのは鮭(さけ)である。川で生まれ翌年川を下り海へでて成長して、また生まれた川へ戻ってくる鮭は、千曲川・犀川に秋になるとたくさん遡上(そじょう)し、人びとの生活を支えていた。なお、鮭は産卵の適地が犀川により多かったため、千曲川より犀川へ遡上するほうが多かった。
鮭は一〇世紀初めの『延喜式(えんぎしき)』のなかに、信濃から貢進物(こうしんもつ)としてみえるように古くからの特産品であった。また下って天正(てんしょう)九年(一五八一)、仁科盛信(にしなもりのぶ)が安曇郡の狐島の地(穂高町)を「鮭川」と称する鮭漁の権利とともに家臣に宛行(あてが)っており、犀川上流でも多くの鮭がとれたのである。
慶長十六年(一六一一)、元和元年(一六一五)には領主が大豆島(まめじま)村に「打切(うちきり)」という方法で鮭漁を申しつけ、元和四年には鮭一〇本につき四本のいわゆる四公六民の上納を命じている。大豆島村では幕末まで、鮭・鯉を上納することで諸役が免除されていた。
鮭漁をおこなうには冥加(みょうが)金が必要であった。松代領の例では寛政七年(一七九五)下真島村(更北真島町)で銀二五匁、文政四年(一八二一)里村山村(柳原)では三〇匁であった。幕府領の弘化三年(一八四六)高井郡厚貝(あつかい)村(中野市)の例では永(えい)五〇〇文であり、ともに金にして二分が冥加金の相場であったとみられる。ただし、元治(げんじ)元年(一八六四)の下真島村大吉は、矢代渡しから犀川・千曲川が合流する落合までの鮭川漁業権を三年間、松代町兼兵衛から借りうけ、七四両の冥加金上納を約束している。
こうした鮭漁の実量はわからないが、明治初年の『町村誌』北信篇に、先の大豆島村では竹簀(たけす)を張り「鮭を取る事莫大(ばくだい)なり」と記されており、秋から冬の鮭漁にわく姿が彷彿(ほうふつ)とする。この鮭漁も昭和十四年(一九三九)に西大滝ダム(飯山市)が建設されたことにより遡上が阻(はば)まれ、今では過去のものとなってしまった。そのときの補償基準として示された漁獲高は鮭一万八五〇〇貫で、この量の鮭が千曲川を遡上していたとみることができる。
なお、大豆島村が鮭とともに上納した鯉は、いわゆる真鯉(まごい)(淀(よど)鯉ともいう)ではなかった。真鯉は文化年間(一八〇四~一八)以前には生息していず、鯉とよばれたものも、アラメやボラなどをさしていた。この地に真鯉を持ちこんだのは、関屋御林(おはやし)(松代町豊栄)を開発し、藩営桑園を開いた篤農家吾妻(あがつま)銀右衛門である。銀右衛門は、近江(おうみ)(滋賀県)の愛知川(えちがわ)産の種鯉を購入し、出身の小網(おあみ)村(坂城町)、開発地の関屋村に堀池をつくって飼育をはじめた。しかし、大雨により堤防が決壊したため飼育していた鯉や鰻(うなぎ)が流れでて、それ以後千曲川の本支流に鯉・鰻が繁殖したといわれている。