江戸時代の街道は、政治上・軍事上の必要によりときの権力者によって以前から整備されてきた道筋をもとに成立している。主要街道としては江戸日本橋を起点とする五街道とそれにつぐ脇(わき)街道があり、長野市域には脇街道のひとつ北国街道(北国往還)が通っていた。
北国街道は、江戸からくると中山道追分(おいわけ)宿(軽井沢町)で分岐(ぶんき)し、小諸、上田、坂木(坂城町)の各宿を通り矢代(やしろ)宿(千曲市)をすぎて二つに分かれた。一つは矢代の渡しで千曲川を渡り、丹波島(たんばじま)宿から市村の渡しで犀川を越え善光寺宿から牟礼(むれ)宿(牟礼村)にいたるルート、もう一つは松代城下を通り、福島(ふくじま)宿(須坂市)北の布野(ふの)の渡しで千曲川を渡り長沼宿から牟礼宿に向かうルートであった。後者が戦国時代から江戸初期の主要道で、武田信玄(しんげん)や上杉謙信(けんしん)・景勝(かげかつ)が川中島平に進出するために整備した軍事目的の強い道であり、長沼城と松代城を結んでいた。そのため前者の善光寺町を通る道ははじめは禁止されていた。しかし、幕府による街道整備が進み、慶長十六年(一六一一)に北国街道の宿駅設定がおこなわれたとき、松代通りとともに善光寺通りの道筋も公認され、しだいに繁栄する善光寺町を通る街道が主となっていった。松代通りはおもに犀川の洪水による舟留めのときに迂回路として利用されたので、「雨降り街道」ともよばれた。善光寺通りには篠ノ井追分(おいわけ)で、中山道洗馬(せば)宿(塩尻市)から分岐した北国西街道(善光寺道)が接続する。
街道には宿駅が整備され、公用荷物の運搬、人馬の提供などの伝馬役(てんまやく)が課せられた。北国街道宿駅に常備される人馬は二五人・二五匹であったが、大名行列や佐渡の金銀輸送などの場合にはこれでは足りず、近隣の村々から補われた。宿駅には伝馬役などを差配する問屋(といや・とんや)、大名らの休泊のための本陣・脇本陣が設けられ、一般の旅籠(はたご)もできた。問屋は商い荷物も宿継ぎ人馬で送りその収益で宿場財政を維持した。のちに手馬(てうま)・中馬(ちゅうま)の付け通しが多くなるとしばしば紛争を引き起こす。宿場は出入り口が鉤(かぎ)の手状にまがり、道路中央に水路が引かれるなど計画的な町割りがなされ、現在でもその面影をとどめているところがある。
長野市域の宿場を善光寺通りから見てみよう。犀川南岸の丹波島宿は、慶長十六年(一六一一)に正規の宿場とされたときに、犀川北岸の太子・押切・米・入殿の各村を南岸に移転させ宿場を構成した。宿中央に旧問屋の柳島家の冠木門(かぶきもん)が残されている。丹波島宿は市村の渡しと一体であり、犀川の洪水のおりには舟留めによる混乱が見られる宿場であった。またたびたび深刻な水害に見舞われた。
犀川を渡るとまもなく善光寺宿につく。善光寺町は全国から参詣人が集まる門前町であり、十二斎市が立つ市場町であったが、そのうえ宿場町としても繁栄する。善光寺町は善光寺八町・両御門前からなるが、問屋・本陣・脇本陣がおかれたのは大門町であり、伝馬役の負担も大門町が中心となっていた。そのため十二斎市の半分六回を大門町が独占していた。問屋・本陣とも有力な町人が勤めた。本陣は安永五年(一七七六)以降藤井家が勤め、現在も本陣藤屋旅館としてつづいている。ただし、現在の建物は近代のものである。
善光寺宿を出て、吉田をすぎると新町(あらまち)宿(若槻)である。稲積(いなづみ)村には一里塚が残っているが、これは旧道がここを通っていたことを示すもので、その後北国街道は新道にかわり新たに宿が設けられた。この宿は稲積村・山田村を移し、稲倉村も合わせて成立した。新町宿の伝馬役は、稲積村と山田村で負担していたが、その負担が大きすぎたため、元和年中に隣接の徳間村と東条(ひがしじょう)村も伝馬役に加わった。その後山田村は伝馬役をはずしてもらい三ヵ村での負担となった。
松代通りを見てみよう。松代宿は武田氏によって築かれた海津城の城下町におかれた宿場である。町八町(まちはっちょう)とよばれる町人町が形成され、そこを束ねる町年寄が宿場の問屋も兼ねた。伝馬役は八町のうち、伊勢町・中町・荒神(こうじん)町・肴(さかな)町・鍛冶(かじ)町の五町が負っていた。城下町松代に宿としての面影は少ない。
松代町を出て鳥打(とりうち)峠を越えると、川田宿(若穂)である。千曲川が宿場のすぐ西を流れるので水害をうけることが多く、伝馬役を勤めることに難渋していた。元文(げんぶん)三年(一七三八)には町の入り口の堤防が決壊し、宿場全体が河原となってしまい、現在の場所に移転した。宿は上横町・本町・下横町がコの字状につくられ、本町両端には火伏せの神秋葉山(あきばさん)の石柱に載った祠(ほこら)が祀(まつ)られている。川田宿は国道や本通りからはずれたため、宿場の雰囲気をよく残している。
千曲川右岸を進むと福島(ふくじま)宿(須坂市)となる。この北に布野の渡しがあり、村山村・布野村(柳原)の共同運営であった。渡って長沼宿(長沼)となる。戦国時代の長沼城城下町に置かれた宿である。元和二年(一六一六)には長沼藩が置かれたが、貞享(じょうきょう)五年(一六八八)に改易(かいえき)、廃城となった。宿場は城下の南端上町(かんまち)に置かれた。上町だけでは伝馬役の人馬が足りないので、栗田町・六地蔵町・内町・津野村・村山村からも出していた。福島宿からきた荷物は、牟礼宿まで山道を継ぎ送る。その負担に苦しんだ長沼宿は、途中の神代(かじろ)村(豊野町)に宿場を置いてほしいと再三訴願し、元文四年に聞き届けられて神代宿が設定された。
北国街道と北国西街道が分岐する篠ノ井追分は宿場ではないが、茶店(ちゃみせ)などが繁盛していた。交通の便がよいこともあり宿屋などもあらわれたが、ほんらいは舟留めになったときや、足が弱ってしまったものを例外的に泊めたものであった。そのため隣の丹波島宿や稲荷山宿(千曲市)からたびたび禁止を求める訴えがなされたが、文政年間(一八一八~三〇)のころには約三〇軒ほどの旅人相手の店があり、にぎわいをみせていた。