佐渡金銀と参勤交代

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北国街道がつくられた最大の目的は、佐渡金銀の「御金荷(おかねに)」の輸送路とすることであった。佐渡の金銀を江戸に送る経路はほかにもあったが、距離や難所の存在などで輸送するには不向きで、北国街道がおもに利用された。

 佐渡から寺泊(てらどまり)あるいは出雲崎(いずもざき)に運ばれた御金荷は三日めには信濃に入り、野尻(のじり)宿(信濃町)の御金蔵(おかねぐら)に保管された。善光寺宿では特別に善光寺本堂に保管されるなど厳重に管理され、一一日目に江戸城の御金蔵に入れられた。北国街道を通った「御金荷」は、元禄十五年(一七〇二)で四八箇(こおり)、宝永六年(一七〇九)に五〇箇で、江戸初期には元禄の数倍の産金量であったことを考えると、初期にはもっと多くの御金荷が通行したであろう。その後、産金量が減少して荷が少なくなり、幕末文久二年(一八六二)には九箇となっている。また安永七年(一七七八)から、佐渡金銀山の水替え人足として江戸の無宿者(むしゅくもの)が目籠(めかご)で北国街道を送られ、各宿ではその対応にも気をつかうこととなった。

 北国街道はまた、諸大名の参勤交代の道でもあった。寛永十二年(一六三五)に三代将軍家光が出した「武家諸法度(ぶけしょはっと)」のなかに「大名小名、在江戸交替相定むるところなり。毎歳、夏四月中、参勤いたすべし」とある。忠誠のあかしであるとともに軍役でもあった。各藩には莫大な費用がかかることになったが、同時に街道沿線の宿場や村々の民衆にとっても大きな負担となった。しかし、江戸と地方との経済・文化の交流をもたらしたことも事実である。

 北国街道を利用していた大名は、北陸・越後の諸大名と信濃では松代・飯山・須坂・上田・小諸各藩などであった。なかでも大きな通行は、加賀百万石の前田家の参勤交代であった。二〇〇〇人をこえるこの行列は、金沢を出発し、江戸までの一二〇里を通常一二泊一三日で歩いた。市域での宿泊はなく、六泊めを牟礼宿でとると、七泊めは坂木宿となる。川留めなどの場合はほかの宿に泊まることもあった。またこの大人数は一宿ではとうてい賄えず、前後の宿場に泊まる人馬も多かった。


図23 加賀藩大名行列図屏風(部分)
(石川県立歴史博物館蔵)

 大名行列はつねに列を組んで進むわけではなく、足早に先を急ぐことが多い。隊伍(たいご)を組むのは、市域近辺では野尻・柏原・牟礼・善光寺・矢代であった。この延々とつづく行列を見た柏原の小林一茶は「跡供(あとども)は霞ひきけり加賀の守(かみ)」と詠(よ)んでいる。

 大名行列などの場合は宿駅常備の人馬では対応できなかった。加賀前田家の例では、人足一〇〇人以上、馬二五〇匹以上を割り当ててきた。そのため近隣の村々から助成を得て用意をする。こうした宿の不足を補う負担を助郷(すけごう)といい、北国街道の助郷は享保(きょうほう)年間(一七一六~三六)にはじまった。一〇〇石につき二人・二匹の規定で、たとえば丹波島宿には更級郡一八ヵ村・一万六〇〇〇石余、新町宿には水内郡三四ヵ村・一万六〇〇〇石余が指定された。助郷に指定された村では宿問屋からの要請で人馬を提供するが、宿場から離れた村では一回の出役に三日もかかるような場合もあって難儀し、しだいに貨幣で代納するようになった。