千曲川と犀川通船

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江戸時代の物流を陸上交通とともにになったのが河川による舟運であった。船を使うことで、人や牛馬とは比較にならないほど一回で大量・安価に物資を運ぶことができるため、大河川では通船が往来した。千曲川の通船も領主米を江戸へ送るために江戸時代の初期からもくろまれたが、技術的困難から実現しなかった。中期以降には民間からいくども通船願いが出されたが、北国街道の宿問屋が継ぎ荷が減少するとして反対したり、川筋の村々が、船を上流に引き上げるさい、田畑が踏み荒らされたり用水の取り入れ口がこわされるとして反対した。また幕府も、公用人馬を継ぎ送る宿駅を保護する必要もあり、容易に認可しなかった。

 千曲川にはじめて通船の許可が出たのは、寛政二年(一七九〇)のことである。許可を得たのは、西大滝村(飯山市)の太左衛門で、西大滝から福島(ふくじま)宿(須坂市)まで一三里の通船であった。「太左衛門船」とよばれるこの船には船頭一人、舳竿(へさきざお)一人、綱手(つなて)四人の合わせて六人が乗っていた。綱手は川をさかのぼるとき、岸から綱で船を引く役であった。三月から十月までの運航で、西大滝・福島間を六日で往復した。船は五艘(そう)の許可を取っていたが、文化十年(一八一三)までは一艘での運航で、塩・材木・大豆・麦・稗(ひえ)などが運搬されていた。

 文化十四年になると松代藩が通船営業に乗りだす。最初は川田宿(若穂)から福島宿までの試行としておこなわれ、その後、文政四年(一八二一)藩営川船(かわぶね)として東寺尾村(松代町)に川船会所(かいしょ)をおいて本格的に運送をはじめた。太左衛門は既得権を主張し抵抗したが、福島・飯山間は太左衛門の差配、松代・福島間は川船会所の差配とし、相互乗り入れの形で和談した。天保年間には年間二~三〇〇〇駄を運んだが、下りは少なく、松代に入ってくる塩・穀類・茶・木綿・油・菜種・紙などの物資がおもであった。なかでも塩の量が多く、松代城下に入った通船荷物の四分の一は塩であったという。通船開通以前、塩は北国街道を陸送されていたが、通船開通後はその一部が富倉峠を越え飯山町に入り、通船を利用して中野・小布施や松代まで運ばれたのである。

 さらに天保十二年(一八四一)には善光寺後町の商人厚連(こうれん)が通船の許可を得た。厚連は、自分の持ち船を荷積み問屋に貸して冥加金を得るという方法で運営していた。西大滝の難所を開削(かいさく)して新潟まで通船させたが、弘化四年(一八四七)の善光寺地震で河床があがってふたたび通船不可能となり、通船の範囲はけっきょく丹波島から西大滝までとなった。なお、厚連の許可により太左衛門は犀川筋の丹波島・荒木まで乗り入れることができるようになった。こうして天保十二年以降は、三者の通船が競合しつつ運航していた。


図24 千曲川通船型取り図面
(『斎藤家文書』県立歴史館蔵)

 千曲川と並ぶ犀川にも通船の計画はいくどもあった。このうち延享四年(一七四七)の願いには権堂(ごんどう)村・問御所(といごしょ)村・三才(さんさい)村などがかかわっていた。しかし、善光寺道(北国西街道)の宿駅や松本平の中馬村々の反対で実現しなかった。実現するのは一九世紀に入ってからで千曲川よりやや遅れる。

 文政五年(一八二二)筑摩郡白板(しらいた)村(松本市)の折井儀右衛門らは新橋(松本市)から新町村(信州新町)までの通船を願いでた。宿問屋や中馬仲間とねばり強く交渉して天保三年(一八三二)示談が成立し、幕府の認可を得た。通船の荷品は米穀類・酒・炭・薪・長材木・長竹・石・土・瓦(かわら)で、重量やかさがあり陸送に不向きな物資が認められた。新町下流では、弥太郎の滝などの急流が通船をはばんでいたので、新町で陸揚げして馬の背により稲荷山方面・善光寺町方面へと付けだされた。

 しかし、現実には荷品の制限は守られず、天保四年宿問屋の訴えにより荷物改めをおこなうと、新町行きの荷物として油粕(あぶらかす)・溜(たま)り・白米・肴(さかな)・瀬戸物・木曽物などのほか、旅人までも乗っていった。そのためあらためて規定が取り交わされた。荷品は先の取り決めと同様であったが、通船の数を一五艘とし、焼き印を受けることとした。その後も荷品についての紛争はつづき、天保七年には荷品の数は五〇品と激増した。通船の利便性が注目され、多くの品が通船を利用していたため制限がむずかしくなってきたのであろう。その後も荷品をめぐっての争いはつづくが、通船は明治にいたるまで活躍する。