戌の満水

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寛保(かんぽう)二戌(いぬ)年(一七四二)七月二十七日(太陽暦八月二十七日)、畿内(きない)に大雨をもたらした台風は、その後、進路を東方へと向け、翌日には信濃と上野(こうずけ)(群馬県)の国境にさしかかる。千曲川流域では七月二十八日の夕刻から八月二日まで大暴風雨がつづき、本支流ともすさまじい氾濫(はんらん)がおこった。小諸・上田・松代・須坂・飯山の各藩、また塩崎知行所などの旗本領、坂木・中野両代官所の幕府領などすべての所領で、人命や住居や田畑などに甚大な被害をもたらした。

 洪水による被害を住民と建物と田畑とに分けてみよう。住民の被害には、溺死(できし)と流木・流石などによる怪我がある。建物の被害では、流れ家・潰れ家(つぶれや)・半潰れ家が生じた。田畑の被害には、①田畑が押し流されて耕作が不能となる永荒れ、②田畑復旧に数年かかる石砂入り・泥入り、③冠水(かんすい)によって根腐れしたり実入(みい)りが悪くなる一毛(いっけ)損毛、などがある。また、松代領「山中(さんちゅう)」などの山間地域では、傾斜面が多量の雨水をふくんで崩れ土石流となったり、地滑りがおこったりして家屋や田畑を押し流した場所が多かった。

 このような被災状況を長野市域の大半を占める松代藩についてみていこう。松代藩筆頭家老矢沢家の『矢沢家文書』に、この満水に関する幕府への被害報告書(写)がある。これによると、松代藩支配二四〇ヵ村・一一万六四〇一石のうち、一八二ヵ村(七六パーセント)・石高六万一六二四石余(五三パーセント)でなんらかのかたちで損毛が生じている。市域の村々での先の①・②・③をふくむ損毛率をみていくと、清野村(松代町)の九四・九パーセントを最高に、最低でも小森村(篠ノ井)の五四・六パーセントと異常に高い(『県史近世』⑦一七二四)。建物の被害は二八三五軒、流死人一二二〇人におよんでいる。

 松代城と城下町では、城の北西ぎわを流れる千曲川が氾濫して、城の本丸・二の丸・三の丸などは、床上(ゆかうえ)約三尺(九一センチメートル)まで浸水し、場所によっては四、五尺まで泥水が流れこんだ。本丸東方の石垣が崩れ、南方の枡形(ますがた)の石垣も孕(はら)みだした。突然の洪水で防ぎようがなく、幕府から預かっている城詰め御用米の蔵や武具蔵へも泥水が入り、米も武具も使えなくなった。五代藩主信安(のぶやす)は船に乗って西条村(松代町)の藩祈祷(きとう)所開善寺まで避難し、殿様の姫たちも船で大林寺へと立ちのいた。城下町は町の東西両縁を流れる関屋川・神田川の洪水におそわれ、武家屋敷一一三軒に泥砂が入り、流れ家七五軒、潰れ家一〇六軒、流死者三九人、流死馬一五匹という被害が生じた。馬喰(ばくろう)町・清須(きよす)町・殿(との)町・肴(さかな)町・厩(うまや)町は七尺から一丈(一〇尺)の浸水となり、逃げ場を失った町人は屋根にまたがって助けを求めた。


図25 寛保2年(1742)戌(いぬ)の満水後の松代領四郡の絵図
(市立博物館蔵)

 善光寺町の被害も大きかった。善光寺平の傾斜地の北端に位置して洪水とは無縁なはずの善光寺八町と町続き地の妻科村後町組(西後町)や権堂村(鶴賀権堂町)なども、ふだんは流量の少ない湯福(ゆぶく)川が氾濫し、思わぬ被害をうけた。また、善光寺の北東では浅川が氾濫し、浅川から用水を引く浅河原(あさがわら)の村々は石高損毛率が五〇パーセントをこえ、上流の北郷(きたごう)村(浅川)では、山抜けがおき、土石流が押しだした。

 このため、松代藩は、本年の国役金(くにやくきん)一七〇両余を翌年に延ばしてもらうよう幕府に嘆願した。藩はまた、災害復旧のため願いでて幕府から一万両を借り入れた。さらに、戌の満水後、家老原八郎五郎の発案で、松代城の足もとを流れていた千曲川を城から遠ざける流路につけかえる瀬直しをおこなう。しかし、「川は昔の道(川筋)を知っている」ため、このあともたびたびの洪水でもとの河川に流れこみ、新川筋が安定するには数十年も要した。

 この戌の満水は松代藩など諸藩の財政窮乏を一気に深刻化した。松代藩では、戌の満水以前の収納籾は最低でも一四万俵以上あったが、これ以降では藩士の知行地を半分蔵入地(藩の直轄地)に組みこんでも、実収入は九万俵、一〇万俵ほどに落ちこんでしまう。

 戌の満水以降にも千曲川では宝暦七年(一七五七)、明和二年(一七六五)、文化四年(一八〇七)、文政十一年(一八二八)、安政六年(一八五九)と、「戌の満水同様」と記録されるはどの大洪水が起きた(『松代町史』下)。