水害以外の災害には、旱魃(かんばつ)をはじめ風害・雹害(ひょうがい)・雪害・霜害(そうがい)、それに山中地域の山抜けによる被害があった。それらのうちおもな災害についてみよう。
まず、旱魃による被害からみていこう。用水体系に不備の多い江戸時代では、ひとたび旱魃が起きると、その損害は莫大となる。松代領内では、一八世紀後半の明和期から寛政期(一七六四~一八〇一)の三六年間だけみても、つぎのような損毛高をもたらす大旱魃が発生した。明和四年(一七六七)四万七一五八石、同七年五万二三六石、翌八年五万六五六八石、安永二年(一七七三)三万八七八四石、同四年三万一八九石、同六年三万五九二〇石、同九年二万八九一五石、天明四年(一七八四)一万八二四三石、寛政六年(一七九四)四万七五四四石で、平均して三年に一度の発生であった。いずれの場合も降雨がひどく少なかったが、前年の降雪量の少なさも影響する。日照りがつづくと、まずやられるのは水源をもたない天水田(てんすいだ)と保水力にとぼしい急傾斜の畑とで、山中に多かった。さらに少雨がつづいた年は用水が涸(か)れ、平坦部(へいたんぶ)の村々も干害になる。村人は村の神社で雨乞いをし、それでも降らないときは、戸隠や聖山(ひじりやま)へ行く。松代藩でも藩の祈祷所(きとうじょ)開善寺に祈祷をおこなわせ、そのお札を村々に配布した。それでも効果があがらない場合、領内諸方の高山で領民に焚(た)き火をおこなわせて祈祷させた。
雹害は被害地域が限られるものの、ときには深刻になる。発生時期は四月中旬から五月中旬が多い。収穫間近の夏作は被害が大きくなる。成熟途中の秋作(稲)がやられると精神的なダメージも大きい。
山中の山抜けは、傾斜地が崩落する土砂災害で、多量の水分がふくまれる場合ははげしい土石流となる。慢性的な山抜け、いわゆる地すべりも多い。市域の西部山中は地すべり常襲(じょうしゅう)地帯である。人的被害のもっとも大きかったのは、飢饉(ききん)の最中の天保七年(一八三六)八月、石川村(篠ノ井)で発生した地すべりである。横一〇〇間(三三〇メートル)・長さ八五〇間(二八〇五メートル)にわたる大規模な地すべりで、三四軒が押しつぶされ、四二人の死者・行方不明者が出た。