天明・天保の飢饉

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長野市域の近世の凶作・飢饉(ききん)としてあげられるものは、寛永十八年から二十年(一六四一~四三)の飢饉、天明の飢饉、文政八年(一八二五)の凶作、天保(てんぽう)の飢饉、慶応元年から二年(一八六五~六六)の不作であるが、ここでは人びとへの影響度が大きかった天明と天保の飢饉についてみる。

 天明の飢饉はすでに天明元年(一七八一)からはじまっていたが、同三年には浅間大焼けと微妙にからみながら本格化し七年までつづく。この天明年間(一七八一~八九)は、歴史気候学でいう寛政・天保小氷期(一七八〇~一八五〇)にあたり、寒冷な気候であった。雨天がつづき米・麦・大豆などが不作で、穀値段が上昇した。市域でも、餓死者がごく少数ではあるが生じ、越後や奥信濃あたりからの流民(るみん)が北信随一の都市善光寺町に集中した。

 田畑を質入れして借金したり、女・子どもを奉公に出したり、富農が食糧のゆきとどかない者に金品を助勢する合力(ごうりき)をしたりして飢饉に対応したが、天明三年九月には上信騒動(じょうしんそうどう)、翌年十月には松代領西部山中(さんちゅう)で天明山中騒動が起きた。松代藩の飢饉への対応は、個々の村々にたいするものと、全領にたいするものとがあった。前者には、難渋する村々への籾(もみ)の下付、郡役(こおりやく)の減免、村の借財の返済方法に藩が介入することなどがあった。後者には夫食(ふじき)心構えの領内触れ、穀留め令(こくどめれい)、飢饉時での食事療法、きびしい倹約令などがあった。幕府領では囲い穀令、塩崎知行所では酒造禁止令などを出して対応策を講じた。

 天保の飢饉は天保三年から九年(一八三二~三八)までつづくが、四年の干害をのぞくと、天候は概して冷涼であり、風雨がつづき連年不作であった。善光寺町の米価は天保四年後半から少しずつ上昇しはじめ、金一両につき白米四斗二升となり、同八年正月には、前年の凶作を反映してか二斗三升と天保飢饉下では最高値(さいたかね)となり、飢饉が収束した同十一年十一月には一石五升六合の安値(やすね)となった。この傾向は松代相場でも同じで、八年三月には、最高値の一斗九升となっている。この八年から翌年にかけて、善光寺町では盗難と捨て子が頻繁にあり、捨て子は一四件をかぞえた。

 村々では、食いつなぐ山野草類を採集し、「飢饉せざる心得書」が出まわった。村は、領主役所に年貢の破免検見(はめんけみ)や年貢上納延期の嘆願をした。また、村人の合意をとって個々の家々が所持する穀類の調査をおこなったり、数ヵ村単位で倹約励行の村定めをとりきめて実行した。松代藩は、飢饉に備えて蓄積した社倉穀(しゃそうこく)や囲い穀(かこいこく)の下げ渡しをおこなった。

 豪農商による施行(せぎょう)もおこなわれた。水内郡妻科村後町組(西後町)の大鈴木家では、松代藩のおこなう粥(かゆ)の施行に手助けをしている。また、松代町では、一〇〇人に達しようとする奇特者が金品を提供して困窮者の救済にのりだした。そのなかでも、藩の御用達を勤める伊勢町八田家では、藩のあと押しをうけて、天保七年十一月から同八年七月にかけて集中的に施行をおこなっている。表3でわかるように、八回にわたり施行をおこない、対象者は延べ二九万人余にのぼった。松代藩では、御払い米の申し渡し、菓子類・飴(あめ)・饅頭(まんじゅう)の製造差し止め、酒造禁止令の発布、米・麦の穀留め令、薬の処方触れなどを出し、困窮する家臣へお払い米を給した。村々でも、窮民救済のため藩へ献金や囲い穀(かこいこく)・融通穀の差し出しの申し出をおこなう百姓が多数でた。天候の回復によって同十年、ようやく飢饉は終息にむかったのであった。


表3 伊勢町八田家の施行