善光寺大地震の惨状

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善光寺は、弘化四年(一八四七)三月十日から開帳(御回向(ごえこう))に入っていた。諸国からの参詣人をあてこんで、山門前の堂庭(どうにわ)には、芝居・軽業(かるわざ)・見世物(みせもの)などの小屋やみやげ物店などが二〇あまりも所狭しと立ちならんでいた。その日、二十四日も夜遅くまで境内はにぎわい、本堂でおこもりする人びとも多かった。午後一〇時ころ、突然天地が崩れるような大揺れがおそった。その震動は不意であり上下に激しく、なににもたとえようもない地響きをともなった。

 このため、数多くの灯火がいっせいに消え、薄明かりからあたりを見渡すと、いつのまにか大門町・横町・東之門町あたりで出火していた。「火事だ」「火事だ」と連呼(れんこ)はするが、うろたえ騒ぐだけで消火のすべもなく、途方にくれるばかりであった。火はやがて大本願・院坊・仁王門や堂庭の見世店(みせだな)を焼き、西町・桜小路(桜枝町)も焼き、さらに善光寺領外町続き地の権堂村(鶴賀権堂町)や妻科村後町組(西後町)にもひろがった。

 さいわい、善光寺本堂は火事をまぬがれたが、堂内はことのほか大破し、いつ火事に巻きこまれてもおかしくない状況となった。そこで、前立(まえだち)本尊・御朱印など大切なものは本堂北東三三〇メートルほど離れたところに移転せざるをえなかった。大勧進(だいかんじん)・山門・経堂(きょうどう)・鐘楼(しょうろう)は火をまぬがれたが、境内の灯籠(とうろう)・石塔・石仏は残らず倒壊した。三(山)門以南と善光寺八町などは一面の焼野原と化し、町のありさまはどこをどことも決めがたい状態となった。善光寺領の被害は、潰れ家(つぶれや)二三五〇軒、死亡者二二二〇余人、うち一〇二九人は旅人だといわれている。


図26 善光寺堂庭災害図
(永井幸一『地震後世俗語之種』(真田家宝物館蔵))

 松代町では、松代城本丸・二の丸・三の丸の囲い塀(かこいべい)・櫓(やぐら)・番所などが倒壊したり大破したりした。寺社や家臣の家、城下町の民家も全壊や半壊の被害をうけたが、地震にともなう火事は避けられた。松代領村々では、居家の全壊九三二七軒、半壊二八〇二軒、大破三二一〇軒で、圧死人二一〇〇人余、怪我人一二〇〇人余、死んだ牛馬も二六〇匹余となった。そのほか、土蔵・物置・酒造蔵などが多数倒壊した。本田・新田の損毛高(そんもうだか)は、領内約二〇〇ヵ村、実高一二万石のうち、一五一ヵ村・七万一〇〇〇石余に達した。さらに、道・橋・土手・用水堰(せぎ)などの損壊、流出は多数にのぼった。善光寺町・松代町以外では、飯山町(飯山市)、稲荷山宿(千曲市)と、松代領山中(さんちゅう)(西部山地)の市場(いちば)町である新町(しんまち)村(信州新町)の被害が甚大で、火災も併発した。

 いっぽう、地すべり常襲地帯の西部山地では、この地震で大規模な地すべりをおこした。現中条・小川・鬼無里三ヵ村にまたがる虫倉山の地すべりは、ふもとの村々、とくに伊折(いおり)・和佐尾(わさお)・梅木(うめき)・念仏寺・地京原(じきょうばら)の五ヵ村などに大規模な土砂災害をもたらし、家や人や馬や田畑を埋めた。また、二十四日の地震は、更級郡山平林村(信更町)と安庭(やすにわ)村(信更町)とのあいだにある岩倉山(虚空蔵山(こくぞうやま))の崩落をまねき、数十丈の土砂・岩石をもって犀川を堰(せ)きとめ、自然ダムを形成した。このため、川下は一滴の水もないような状態となり、人びとは犀川を徒歩でわたることができた。堰きとめられた水で、新町村など犀川沿いの村々や有名な久米路(くめじ)橋も水中に没した。湛水(たんすい)は少しずつ上流におよび、やがて押野(東筑摩郡明科町)におよんだ。

 この堰留め湖がいっぺんに崩れおちたときの被害を警戒し、松代藩では、犀川沿いに高土手を築くなどの応急措置を講じたが、翌四月の十三日午後二時ころ、堰きとめられていた水は一気に自然ダムを決壊し、洪水が善光寺平に満ちあふれた。あふれでてくる大洪水の音は、山が崩れるかと思うようなすさまじさで、川中島平の村人はあわてて妻女山(さいじょざん)から赤坂山(松代町)あたりにたちのいた。昨日まで青々としていた麦畑は一夜のうちに満々と水をたたえる大河と化した。水は翌日夕方ようやく引いた。

 善光寺大地震は、長野市域に地震、火事、地すべりのうえ洪水による被害をもたらし、人びとはどん底におちいった。そこからの復興は、自力ではどうしようもない状態であった。人びとは、震災者にむすび・ろうそく・煙草・塩鮭(しおざけ)などを差し入れて助けあった。松代藩は幕府から一万両を借り入れ、困窮者に金一分なり二分なりを貸与した。また、善光寺も、松代藩から三〇〇〇両を借りだし領民に緊急の貸し出しをし、また本寺筋にあたる寛永寺からも祠堂(しどう)金三〇〇〇両を借りだした。

 地震後、松代藩では小松原村(篠ノ井)・町川田(まちかわだ)村(若穂)・八幡原(はちまんぱら)(小島田町)に御救い小屋を設けて被災者を救済し、四月末には藩主真田家の菩提寺(ぼだいじ)長国寺や大英寺、また妻女山で施餓鬼(せがき)をおこなった。善光寺領でも、箱清水村畑中の善光寺仮堂で四月十三日から一〇〇日間、非業(ひごう)の死者をとむらうため、朝施餓鬼をおこなった。

 善光寺地震の規模は、古記録から推定してマグニチュード七・四、震源地は浅川清水付近の地下とされている。地震は地下の断層が動くことにより生まれるが、長野盆地の西縁部には活断層が何本も走っており、ひっくるめて長野盆地西縁構造線とよばれる。善光寺大地震はこの構造線が動くことにより生じたものと考えられている。