近世初期の村では、地侍(じざむらい)の系譜をひく有力百姓が支配機構の末端としての肝煎(きもいり)に任じられて村政運営をおこなった。前期にはまた、村の百姓の身分差が強かった。松代領では寛文六年(一六六六)の検地のとき、少数の頭判(かしらばん)(本百姓)と、判下(はんした)(非本百姓)に分けられ、後者には加来(からい)・門屋(かどや)・地下(じげ)・帳下(ちょうした)などや下人(げにん)(譜代(ふだい)奉公人)からなる複雑な身分差が存在した。肝煎呼称は、やがて庄屋(しょうや)や名主(なぬし)へ変わり、村人代表としての性格が強まる。しかし、一役だけの村役人で全村人を代表するのは無理がある。松代領では、万治(まんじ)年間(一六五八~六一)ごろから肝煎と組頭(くみがしら)が村人代表として連署する村方文書(もんじょ)があらわれ、さらに元禄年間(一六八八~一七〇四)ごろ第三の村役人として長(老)(おとな)百姓が連署に加わって、いわゆる村方三役制が成立する。幕府領では一八世紀前半に、名主・組頭に小百姓代表として百姓代が加わり三役制となった。
こうした村役人の変化には、その背景に、小百姓(小前百姓)とよばれる中下層村民の自立と発言力の高まりがあった。初期本百姓に従属していた小百姓が、分家や新田開発などでわずかながら田畑を手にいれ自立してくる動きが、一七世紀後半から顕著になりはじめる。それにつれて小百姓は、従来の村役人の村政運営や年貢(ねんぐ)の割りつけ方などの改善を要求し、しばしば村方騒動が発生する。小百姓たちは、世襲的特権的な名主の退陣を要求し、名主を二人立てる組分け制や、有力百姓家が交代で名主を勤める年番(ねんばん)名主制が実現する。さらに一八世紀半ばからは、入札(いれふだ)(選挙)で村役人を選出する方式も生まれ、小前百姓からも村役人が選ばれるようになる。松代藩は、小前層の村役人進出を村落支配秩序を乱すものとして再三禁止したが、村方三役すべてが小前百姓から選出されている村もあるほどの勢いをおさえきれず、寛政十二年(一八〇〇)には、村方三役の一役を小前が占めることを公認した。判下(はんした)から頭判への昇格運動のひろがりとあいまって、村の民主化が進展した。
一九世紀にはいると、小前百姓層の村政掌握をめざす動きが一段と高揚する。文化七年(一八一〇)、松代領南長池村(古牧)で、判下が参加した入札により、判下身分の弥曽八(やそはち)が当選した。旧来の村役人層は、判下層の共謀の結果で無効だと藩役所に訴えた。文政九年(一八二六)には、同領広田(ひろだ)村(更北稲里町)で、判下百姓が入札で名主に選出され、頭判への昇格を要求して成功した。
村政をめぐる村方騒動の頻発(ひんぱつ)と同じ時期に、地主を相手に小作人が結集し小作料減免を要求する小作騒動もしきりに起こった。領主と結託する豪農層への小前層の不満も高まる。家柄・家格や身分差で維持されてきた村落社会秩序は大きく揺らぎ、幕末に向けて「世直(よなお)し(世均(よなら)し)」意識が醸成(じょうせい)されていく。