衣食住の高まり

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一七世紀中ごろまでは上方(かみがた)商人からの需要もあり、筑摩郡や水内郡各地で麻が作られていた。しかし、そのころから新しい衣料である木綿(もめん)への需要が高まりはじめた。貞享(じょうきょう)年間(一六八四~八八)ごろ、川田宿(若穂)の問屋又右衛門が、はじめて木綿合羽(がっぱ)というものをこしらえ、松代への往来に着用したところ、通りの村の女たちが川田の問屋が木綿合羽を着て通ると誘いあって見物したほどだった。ところが明和年間(一七六四~七二)になると、馬方でももっと立派な合羽を着るようになったという(『飯島家記』)。

 木綿衣料は麻に比べて柔らかく、染色もしやすいので、庶民はいっそうの美を求めて他ときそいあい、一八世紀になると、善光寺平でも、麻から木綿への衣料革命が浸透し、「木綿世」となった。藩や幕府の衣類統制もまたこうした衣料の変化に対応して、百姓の衣類を木綿に制限したが、庶民の衣料多様化を求める意識は、さらに絹織物へと向かい、所持する衣類の量も増加した。

 安永七年(一七七八)、石川村(篠ノ井)南沢家の娘の嫁入り支度品のなかには、緋縮緬金糸紋小袖(ひぢりめんきんしもんこそで)や白無垢(しろむく)、白綸子惣散(りんずそうち)らし衣装など、禁令を無視した豪華な絹織物衣装がふんだんに用意されていた(『県史近世』⑦七〇一)。「分(ぶん)にすぎたる衣食」を好むなという領主層の倹約令がしきりに出されるのも、庶民生活文化の向上を背景としてのことであった。


写真106 豪華な絹織物の能装束 長絹黄絽地牡丹南天垣蔦模様 (真田宝物館蔵)

 日常の食事は、江戸前期、農家ではカテ飯(ヒエや野菜などのまぜ粥(がゆ))などが中心で、一日二食だった。江戸後期になると一日三食となり、農繁期には四食が一般化した。婚礼や祭礼などの特別の日には、白飯や麺類(めんるい)、赤飯、酒などが奉公人にもふるまわれるようになった。食の多様化もすすみ、岡田村(篠ノ井)の寺沢家の文政年間(一八一八~三〇)の農業諸記録には、食料としての塩・油・味噌糀(みそこうじ)の仕入れ時期や仕入れ先のほか、味噌煮や醤油(しょうゆ)・納豆・梅干し・瓜漬(うりづけ)・ささげ粕漬・松茸(まつたけ)漬・沢庵(たくあん)漬・白味噌・鰤粕(ぶりかす)漬・鮭(さけ)等粕漬などの作り方がこまかに記録されている。

 酒・茶・煙草(たばこ)などの嗜好品も多様に普及した。戦国時代末の信濃へのお茶の流入(伊勢茶)は、伊勢御師(おし)の活動によるところが大きかった。天正九年(一五八一)宇治七郎右衛門尉久家(じょうひさいえ)の檀家(だんか)巡りのさい、「かやす(海津)のさいねん(西念)寺 上之茶十袋・あおのり・ふのり」(『信史』⑩九九頁)などとあり、延べ一三五〇袋のお茶を配布していた。貞享三年(一六八六)、松本の茶屋伊右衛門(いえもん)家の「大福帳」をみると、牧島村(松代町)や笹平(ささだいら)村(七二会)の荷主から煙草などを買い入れ、伊勢茶(伊勢地方産茶)・あべ茶(安倍川産茶)などを販売している。宝暦十三年(一七六三)の中馬(ちゅうま)荷物をみると、名古屋や遠江(とおとうみ)方面からの茶荷物が、米穀類や塩などとともに北信へ送られていることがわかる(『県史近世』⑤一二二九)。伊勢御師や中馬によって信濃に流入した茶は、北信濃の庶民にも届き、食生活を豊かにするものとなった。

 江戸前期の百姓家は茅葺(かやぶ)き屋根の掘っ立て柱で、間仕切りが少なく土間にネコ(厚手の筵(むしろ))だけの家がほとんどだった。享保(きょうほう)二年(一七一七)の松代町大火のあとに、土蔵が町家(まちや)から百姓家へもしだいに普及した。一九世紀にはいるころから一般に住居面積が広くなり、瓦(かわら)屋根もしだいに普及した。有力百姓の家では、畳敷きの部屋に床の間を設けて掛け軸や花を飾るようになり、こうした建築様式の変化に対応し挿花(そうか)や芸道が発達してきた。