文書主義と寺子屋

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江戸時代になると、諸大名は統一的な支配政策のため、文書(もんじょ)によって命令伝達をするようになり、村役人を勤める有力百姓は読み書き算用能力が求められた。一七世紀後半になって小百姓が自立しはじめ、慣行によっていた山野・用水の利用も、争いが生じると裁許状や和談の証文が作成され、以後、それを前例として利用権を主張するようになった。領主の支配に必要であった文書は、庶民の権利保証にも有効となり、村民相互の契約や村ごとの取り決めが文書によっておこなわれるようになった。こうして文字需要が高まり、各地で寺僧や医師・牢人(浪人)(ろうにん)などに手習いを求める動きが生まれた。文書の有効性を保証するために、証文の末尾に「後日(ごじつ)のために件(くだん)のごとし」と記され、印が押されるようになった。百姓の捺印例では、天正(てんしょう)二十年(文禄元年、一五九二)山布施(やまぶせ)郷(篠ノ井)での議定証文が、全国でも早い例として知られる。


図27 山布施郷と笹平村境議定証文 大炊助、新六、勘□のそれぞれの黒印がみられる (『信史』⑰)

 上田領岡田村(篠ノ井)寺沢家の「家伝修身録」(寛政六年)で、「八歳より手習い致すべき事」「小学・孝経・四書等よまざれば物の理(ことわり)も知らず、当分の文字も読みかね、不自由なるものに候へば、読むべき物なり」と述べているように、一八世紀なかごろ以降の家訓(かくん)にも、文字学習の必要が書きこまれるようになった。心学(しんがく)の奨励などの領主層の教化策に加えて、村役人の年番制や入札(いれふだ)制の普及により、村政に参加する層が増大すると、文字需要がさらに増大して、寺子屋が増加し、多くの庶民が文字を学ぶようになる。民富(みんぷ)が形成されてくると、文化文政期以降、俳諧(はいかい)を主とした庶民文芸が発達してきた。

 信濃国では六一六三人の私塾・寺子屋師匠が知られる(『県教育史』①)。久木村(小川村)で松代藩士石坂重三郎が元禄十三年(一七〇〇)、小松原村(篠ノ井)観照寺僧称賢(しょうけん)が元禄年間(一六八八~一七〇四)に開設している。私塾・寺子屋は、一八世紀末から増えはじめ、一九世紀半ばから幕末・明治初年にかけて急速に普及した(表4)。幕末の安政五年(一八五八)ころ、森村(千曲市)の中条唯七郎が、「昔は当村辺に無筆のもの多し、しかるに今は無筆の人なし」(『見聞集録』)と記録するほどになったのである。師匠は、百姓・町人が三四五七人(五六パーセント)と多く、僧侶(そうりょ)一〇一三人(一六パーセント)、武士五三二人(九パーセント)とつづく。手習いにはおよそ七、八歳から就学し、最初に「いろは」を学び、単位や数字、十干十二支(じっかんじゅうにし)、町名、村名、名頭(ながしら)などを学んだ。『海津(かいづ)往来』『善光寺詣(もうで)』などの教科書もつくられた。農村部では女子の就学率が少ないが、町部では多い。善光寺町(長野市)の随行坊(ずいぎょうぼう)では女子が約四七パーセントを占めた(表5)。これは町家に嫁ぐ女性には読み・書き・算盤(そろばん)の教養が求められていたからであろう。手習いの女師匠に北徳間村(若槻)の田中鶴子がいた。


表4 寺子屋の開設時期と数(時期不詳分267を除く)


表5 男女別寺子数

 学制にさきだつ明治二年(一八六九)には、各村々に私費で人民共立学校の設立が奨励された。今里村(川中島町)の日新館は、明治二年六月に有志の協議で設立された信濃国最初の郷(ごう)学校といわれる。旧長野県は、明治四年長野県学校を妻科村(南長野)正法(しょうほう)寺に開設した。明治五年の学制発布以降、寺子屋は順次廃され小学校へと移っていった。