近世の村が成立し、村共同体としての結合が強まるなかで、村のなかにいくつかの年齢集団も生まれた。数え六~八歳から一五歳未満の子ども組、一五歳からの成人中心の若者組、一二、三歳から結婚までの娘組などである。安永三年(一七七四)岩村田藩の申し渡しに「近年若者銘々組をたて」とあるのが、信濃における若者組の早い例とされるが、市域で若者組が文書にあらわれはじめるのは一八世紀後半からで、一九世紀にはいるとその活動が活発化し、村の主要な活動をにない、所領をこえての他村との交流もさかんになった。
若者組は、村の神事祭礼の推進、神楽(かぐら)・盆踊(ぼんおど)り・相撲(すもう)などの祭礼諸興行の実行、林野・用水の維持・管理、村の消防や警備、文化の伝承と教育、娯楽などをになった。平林村(古牧)の天保七年(一八三六)の若者組議定では、「七、八歳から手習いをし、一〇歳ごろから算盤(そろばん)を稽古しないと、生涯無筆無算と笑われ、自分でも恥ずかしい思いをする。一五歳から身を修め、三〇歳までに人の道のおこないを習うこと」とあり、教育と文化伝承の大切さも意識されていた。
各地の若者組をみると、仲間入りはだいたい一五歳であったが、退役年齢は村によってまちまちで三〇歳から三五歳のところが多い。赤沼村(長沼)や吉(よし)村(若槻)では、三〇歳を過ぎると兄若者(あにわかもの)や後見人などとよばれ、仲間の世話にあたった。若者仲間は団結が固く、規律違反者には、仲間はずしなどの制裁が加えられた。大酒・色狂い・遊女通い・ばくちなどのほか、野荒し、遊び日(休日)に働くことなどをしたら、世話役や懇意のものが意見した。それでも聞き入れなかったら、連(れん)(仲間)はずしをして、交際を絶つことにした。
若者組の活動の中心をなすのは、村の神仏祭礼での諸興行であった。市域では、獅子舞(ししまい)・太神楽(だいかぐら)・相撲(すもう)・花火などのほか、歌舞伎(かぶき)や浄瑠璃(じょうるり)もおこなわれた。相撲興行では、北信でも草相撲がさかんになり、三才(さんさい)村(古里)から木曽川伝吉(のち五代目廿山(はたちやま))、東寺尾村(松代町)から君ケ嶽(きみがたけ)助三郎など江戸相撲の力士が出た。天保十五年(弘化元年、一八四四)千田(せんだ)村(芹田)瑠璃光寺(るりこうじ)、同年北徳間村(若槻)八幡宮・諏訪宮両社、文政三年(一八二〇)北尾張部村(朝陽)の尾張神社などへ、それぞれ四本柱土俵が免許され、若者組が運営にあたった。
嘉永七年(安政元年、一八五四)、大塚村(更北青木島町)の若者組による産土(うぶすな)諏訪神社の定例祭礼興行の出し物は、第一番から第六番までの組ごとに、引き舞台とそこで浜風塩汲みの手踊り、獅子舞、箱根権現(ごんげん)十一段目、くじ引きから伊勢音頭やおけさ踊り、子ども二、三〇人による亜美利加(あめりか)征伐の陣立てなど、派手なものとなった。
村の農作業休日を遊び日という。北信では年間二〇~三〇日がもとからの定例遊び日であったが、神々が新たに村に勧請(かんじょう)されるにつれ、遊び日は増加した。遊び日は村中惣寄り合いで決められた。しかし、一九世紀にはいると雨祝い・雨乞い・天気祭り、祭り前日、祭礼稽古、祭礼仕舞い、虫遊びなどの願い遊び日が増加した。さらに農業から離脱した村民が増えたため、気儘(きまま)遊び日、勝手遊び日とよばれた共同体の秩序を破った勝手な休日も生まれる。
領主は祭礼や遊芸にたいしてきびしい規制を加え、それと一体化した若者組規制も強めた。が、若者組は、きびしい祭礼興行規制をのりこえて、ねばり強く訴願したり、また領主役人への付け届けや、巧妙な粉飾によって新規興行を確保し、新しい村落文化を生みだしていった。