善光寺町(八町・両御門前)の人口は、明和元年(一七六四)四二〇四人、文政五年(一八二二)五二八九人と増加したが、幕末の元治(げんじ)元年(一八六四)には四九八四人と減少している。これは、善光寺大地震の被災のほか、在方商業の発展と町続き地の拡大で善光寺町の商工業活動が停滞したためと考えられる。善光寺門前町につづく北国街道沿いに町場化がすすみ、松代領妻科村のなかに後町(ごちょう)・新田・石堂の各組ができ、幕府領の権堂(ごんどう)村、越後椎谷(しいや)領の問御所(といごしょ)村も町続き地となっていった。後町は北国街道をはさんで寺領(東後町)と松代領(後町組)があり、問御所村付近も越後椎谷領と松代領妻科村新田組が接しあう。町続き地住民も祇園(ぎおん)祭に参加し、善光寺町と一体化する傾向をもつが、逆に大門町を中心とする八町が旧来の権益を守るために町続き地の新興商人と対立して争うことも少なくなかった。
権堂村は門前町の花街(はなまち)として発展して、水茶屋(みずちゃや)が増加し、人口も安永三年(一七七四)の七一五人から天保七年(一八三六)には一二七四人へと急増した。村内百姓らは、寛延二年(一七四九)から数度にわたり、風紀を乱すと水茶屋営業停止の願いを出した。繁栄を奪われることを懸念する大門町も既得権益を守るため、権堂の水茶屋稼業停止を訴訟した。嘉永三年(一八五〇)に、水茶屋の存続を認めるが決して旅人を宿泊させないこと、権堂村が善光寺宿に助成金を払うことなどで和解した。
宝暦年間(一七五一~六四)ごろ、善光寺十二斎市(じゅうにさいいち)の市日ごとに新田口で木綿布市が開かれていた。天保五年(一八三四)には善光寺宿問屋などが善光寺町市場衰微を理由に、町続き地での市商い禁止などを幕府に訴えでて、町続き地における問屋同然の商売禁止などが取り決められた。
松代城下町人町は「町八町(まちはっちょう)」とよばれる馬喰(ばくろう)町・紙屋町・紺屋(こんや)町・伊勢町・中町・荒神(こうじん)町・肴(さかな)町・鍛冶(かじ)町からなっていたが、一八世紀の後半に別に「町外町(ちょうがいまち)」が設定された。文政四年(一八二一)には、町外町として町続き地(新馬喰町・新小越町・荒町村・下田町(しもだまち)同心町・御廏(おんまや)町など)、武家町・武家屋敷地(竹山同心町、河原新田松木重蔵屋敷・藤岡甚右衛門抱(かかえ)屋敷など)、寺社境内地(大信寺地中・大英寺地中・大林寺地中・本誓寺地中など)八八ヵ所が登録されている。町外町全体人口は一二〇五人だった。町外町人口は、天保八年(一八三七)二二四四人(八町人口二七一三人)、天保十五年二二九三人(八町人口二七四一人)と増加している。慶応三年(一八六七)の調査では七一〇軒、二七一〇人に達している。この増加の大半は借家・借地などの下層町民の増加によるものであった。
町外町の一つ、新馬喰町の弘化二年(一八四五)の「家業書上」にみえる四六軒の内訳は、足軽・同心二二、小作九、小商い六、木綿商売一、穀屋一、酒屋商売一、桶屋(おけや)職一、紺屋職一、大工職一、指物(さしもの)商売(家具師)一、お湯殿番一などで、ほぼ半数の武家奉公人のほか小商人や諸職人が雑居していた。ほかの町外町の住民構成もほぼ同様であった。