松代藩家中は、正月の登城や武芸稽古始めなどのほか、五節供(せっく)(正月七日の人日(じんじつ)、三月三日の上巳(じょうし)、五月五日の端午(たんご)、七月七日の七夕(たなばた)、九月九日の重陽(ちょうよう))には、登城御礼や民間と同様のお祝いをした。藩主にとって大切な行事に、歳末から正月にかけての将軍や諸大名への進物(しんもつ)のほか、真田家氏神(うじがみ)である白鳥(しろとり)神社への参詣や、歴代藩主の祥月(しょうつき)命日ごろの廟所(びょうしょ)への参詣や回忌法要などがあった。
松代城下町の十二ヵ月の暮らしは恩田緑蔭(りょくいん)の「松代十二箇月絵巻」に描かれている。元朝(がんちょう)に産土社(うぶすなしゃ)など社寺参詣、二日は稽古始めと商家の初荷、三日は武芸始めなどがあり、正月三ヵ日には神棚に御供え物をあげて献灯し、朝か昼に雑煮を食べた。七日は七草粥(がゆ)と寺子屋の読み始めの日、十一日は蔵開き、十四・十五日は小正月(こしょうがつ)で、十五日は左義長(さぎちょう)(どんど焼き)がおこなわれる。二十日は二十日(はつか)正月で正月最後の遊び日だった。二月二日は奉公人の出替わり日である。三月には鶏(とり)合わせや雛(ひな)祭り、観桜(かんおう)(花見)など、四月は産土社の春祭りと釈迦(しゃか)誕生日の花祭り、五月五日の端午の節供には、家の入り口に菖蒲(しょうぶ)をかけ菖蒲湯にはいった。
城下町をあげての天王(てんのう)祭り(祇園(ぎおん)祭)は六月の十八・十九日が定例だった。室町時代から始まり、戦乱の中絶のあと、江戸初期に再興され、寛文十一年(一六七一)の「御町間(ごちょうけん)帳」に「祇園山引き人足出(いだ)し申す事」とあり、一七世紀後半にはほぼ江戸時代後期までの、祭礼のかたちが定まった。
七月は、七日の七夕、十三日から十六日まで中元(ちゅうげん)(お盆)、八月は中秋(ちゅうしゅう)で秋祭りの季節で、十四日・十五日は火伏(ひぶせ)の神である秋葉権現(あきばごんげん)の祭りだった。九月は、九日の重陽の節供、菊の鑑賞会や紅葉(もみじ)狩りの季節でもある。十月亥(い)の日は玄猪(げんちょ)の祝いがある。新米で餅をつき、亥の刻に食べる。十一月二十日は恵比寿講(えびすこう)で商売の日、十一月中の冬至の夜はカボチャを食べる。十二月二十一日以降、煤(すす)払いがされ、暮れには餅つきをし、三十日までに門松やしめ縄を飾って正月の準備をし、大晦日(おおみそか)には鮭(さけ)や、ときには鰤(ぶり)などの年取り魚を食べた。
安永五年(一七七六)の善光寺の年中行事をみると、元日に朝拝式、修正会(しゅしょうえ)、六日に御印文(ごいんもん)、七日七草会(ななくさえ)、十六日御印文渡、三月三日上巳(じょうし)の節供、六月十三・十四日祇園会、晦日盂蘭盆会(うらぼんえ)、七月十五日施餓鬼(せがき)、十月五日~十五日十夜念仏法要、十二月七日別時念仏開始、二十六日惣勘定、二十八日堂童子(どうどうじ)、中衆、道心らによる煤払い。晦日、堂奉行らの大勧進へ歳暮挨拶、年越し行事などがおこなわれていた。
善光寺町の行事を、文久三年(一八六三)の町年寄の仕事からみると、正月や五節供、善光寺の年中行事参加以外に、正月九日松代へ年頭の挨拶、十一日御蔵開きのため社倉(しゃそう)へ、二十三日大勧進で初寄り合い、八町三ヵ村庄屋・宿役人らへの条目読み聞かせ。二月十五日から借屋取り調べ、三月十五日ころ町廻り、六月からは祇園祭礼の準備運営、七月中ごろから宗門帳の点検、十月に立冬米相場調査、十一月二十七日年貢上納金相場を決定し、八町三ヵ村庄屋へ通知、十二月二十日祠堂金(しどうきん)(寺院の貸付金)割り納めの取り立て、三十日大勧進・大本願へ昆布(こんぶ)五本・酒二升、寺侍へ酒札(さけふだ)(酒の商品券)を配る。年貢納入や諸祭礼を統轄し、年中多忙の職であった。
善光寺町の祇園祭は、五月に妻科の聖徳宮(しょうとくのみや)から祭神である牛頭天王(ごずてんのう)おろしがおこなわれ、六月九日夜の疫神斎(えきしんさい)(祭とも)のあと、六月十三日・十四日の善光寺八町と後町村の出し物の巡行で最高潮に達した。祇園祭は、明治以降の復活、中絶をはさんで、戦後の昭和二十五年(一九五〇)以後、商工会議所が主催する夏祭りへと変化した。諏訪社の御柱(おんばしら)祭りも万延元年(一八六〇)以後、武井(たけい)神社を中心に善光寺町でもさかんになった。