化政期(文化文政期、一八〇四~三〇)前後から、町の景観や町民の生活文化に大きな変化があらわれた。善光寺平では、一八世紀後半から木綿・菜種などの商品作物が栽培され、蚕糸業、絹縞織(きぬしまおり)などの地場産業が発達し、文化七年(一八一〇)には松代糸市が設けられるほどになった。
松代城下町では、角見世(かどみせ)の菊屋(八田家)などの大店(おおだな)が北国往還通りに店を構えるようになったが、一般の町家(まちや)では平屋(ひらや)建て、土間、板・茅葺(かやぶ)き屋根が多かった。文化年間(一八〇四~一八)にくだっても、場末の町ではまだ土間にねこ(厚手の筵(むしろ))を敷いた店で商いをしていたが、大通りでは礎石柱の二階建て、瓦屋根の家が多くなった。上水道は、関屋川や掘り井戸を水源として殿町(とのまち)などの武家町・町人町の主要道路沿いに石組みの上水道が敷設されるようになった。明和年間(一七六四~七二)、西条村(松代町)に最初の水車がつくられたが、文化年間になると西条村内だけで二五軒もの水車屋があった。千曲川の淀鯉(よどごい)(真鯉)は、殖産家吾妻(あがつま)銀右衛門が文化年中に経営していた養殖池から千曲川に流入し繁殖したものといわれる(飯島家記)。
紙のこよりか藁(わら)しべで束ねていた髪も、江戸中期ごろから、元結(もとゆ)いで結い、鬢付(びんづ)けに伽羅(きゃら)油を使いはじめ、明和年間にはじめて松代城下町に髪結い床(どこ)ができた。銭湯も一八世紀後半に鍛冶町にはじめて開業し、文化五、六年ごろには、紺屋町・鏡屋町(伊勢町の枝町)・中町の下横町(しもよこちょう)に計三軒開業していた。埴科郡加賀井村(松代町)・東寺尾村(同)・倉科村(千曲市)の温泉は、みな文化年間にできた沸かし湯である。
宝暦年間(一七五一~六四)に東木町で砂糖入り饅頭(まんじゅう)が売りはじめられ、寛政二年(一七九〇)ころ、江戸で修業した大坂屋磯右衛門が、伊勢町に京御菓子所という看板を出し開店した。評判となり、文化四年(一八〇七)に藩の御菓子司に指定された。豆腐屋は近世前期から存在したが、文化七年に竹山同心町にできた豆腐店は、江戸の料理茶屋で修業した豆腐料理を出し評判になった。文政元年(一八一八)に松代に来往した時計師市左衛門は伊勢町の借家で開業し、鎌原桐山(かんばらとうざん)所持の自鳴鐘(じめいしょう)(時計)も修理している。下駄屋ができるのは文化年間以後のことであったが、急速に茣蓙(ござ)付き駒下駄などがはやりはじめ、草鞋(わらじ)が切り緒(お)から細緒に、雪駄(せった)が麻裏にかわって、幕末にはただの藁草履(わらぞうり)をはくものは皆無に近くなったという(古老話聞書)。文政九年、善光寺宿問屋一一代小野善兵衛がなくなり、戒名は賢明院聖譽慈運達道居士とつけられた。五年後の天保二年(一八三一)の公儀触れで、戒名に身分不相応な院号居士などをつけてはいけないとの禁令が出ている(小野家日記)ほどに、身分格式を示す標識もさまざまに移り変わっていた。
化政期以降の庶民文化の発達も目をみはるものがある。文政十年刊の「信上(しんじょう)(信濃・上野(こうずけ))当時諸家人名録」という文人録をみると、実人員二五九人の地方文人がたしなんでいる学芸のトップは俳諧(はいかい)で三一パーセント、ついで書が二一パーセントであった。狂歌・俳諧歌と画もそれぞれ一三パーセントでかなり普及していた。小林一茶は文化九年に五〇歳で故郷柏原(信濃町)に帰住した。帰郷後は、北信濃の門人らへの指導で職業俳諧師として生活できるほど、この時期には地方に俳諧が流行していた。吉田村(吉田)出身の一茶より二歳年上の茂呂何丸(もろなにまる)は、文政初年江戸に出て俳諧と著述に専念した。化政期以降、挿花(そうか)の正風遠州流が善光寺平に流入し、さかんになっている。化政期は俳諧の趣味が広く普及し、庶民の教養を高めた時期であり、その背景には地場産業と商品流通の発達による民富(みんぷ)の形成と、文人らとの活発な交流があった。