長野市の繁華街鶴賀権堂町は、江戸時代には権堂村といわれ、江戸前期の一時期、尾張支藩松平義行領になったが、あとは幕府領で一貫する。天保(てんぽう)二年(一八三一)からは幕府から預かった松代藩の御預かり所となる。この権堂村は、中之条代官所の支配のもとに、すでに天明八年(一七八八)までに水内郡栗田村・千田村(芹田)など一〇ヵ村と組合村(くみあいむら)を結成していた。
江戸時代には、用水や入会山(いりあいやま)の維持管理、増大する助郷(すけごう)への対処、年貢金の江戸への搬送(はんそう)など、とうてい一ヵ村のみではおこなえない仕事が多かった。そこで、各地に数ヵ村から数十ヵ村の村々が連合してことにあたる組合村がつくられてきていた。一八世紀後半に治安が悪化してくると、盗賊や無宿博徒(むしゅくばくと)、金品を強要する浪人などから村落を守ることが新たに深刻な問題になってきて、治安維持のための組合村を結成する動きがでてきた。幕府や藩も村々のこうした自生的な動きを上からとらえなおし、支配組織として位置づけようとする。とくに代官所陣屋に二〇人内外しか常駐(じょうちゅう)せず手不足の幕府領では、組合村をつくらせて治安維持上これに多くを依存する。中之条代官陣屋(坂城町)では天明八年までに、六郡二五五ヵ村を三八組合村に編成した。
中之条陣屋の支配下では、組合村の代表は組惣代(くみそうだい)(組合惣代)といわれ、村名主が兼任する場合が多かった。また、組惣代のまとめ役は惣代役とか割場(わりば)とかいわれたが、寛政年間(一七八九~一八〇一)に郡中代(ぐんちゅうだい)と称されるようになった。郡中代は当初、陣屋元の中之条村の名主が兼任したが、やがて専任の郡中代がおかれるようになり、村々全名主の合意により選出された。任期は二年、給金は年一〇両と決められている。
郡中代は陣屋に出入りして代官・手付(てつけ)・手代(てだい)らの指示をうけ、その政務の一部を分担する。おもな職務内容はつぎの三点であった。①村々名主や組惣代・郡中取締役(ぐんちゅうとりしまりやく)などを招集して郡中寄り合いを開き、郡中代・郡中取締役の選任などを相談する。②郡中入用費の村々への割り付け(郡中割(ぐんちゅうわり))と徴収、支払いの業務をおこなう。郡中割には陣屋の修理経費などもふくまれた。③年貢・諸役の割り付け・収納に関することを村々へ通達し、また年貢金の保管や江戸への輸送をおこなう(『更級埴科地方誌』③近世編上)。
郡中取締役は、郡中代とともに手薄な代官支配機構を補完するが、とくに治安維持面を担当した。一八世紀末から一九世紀へと貨幣経済が急速に浸透するなかで、離農・脱農者が続出し、村々の支配秩序が動揺し、博徒(ばくと)をはじめ悪党が横行した。これに対処させるため、中之条代官所では享和(きょうわ)元年(一八〇一)、郡中取締役を新置した。そのひとり井上村(須坂市)の豪農坂本幸右衛門は、高井郡二四ヵ村を担当してにらみをきかせた。郡中取締役は村役人らを指図する権限をあたえられ、勤務中は御用提灯(ごようちょうちん)を用い、野羽織(のばおり)の着用も許された。
この時期には、幕府にも治安取り締まりに専従する役職が設けられる。悪党横行が甚(はなは)だしかった関東では文化二年(一八〇五)、関東取締出役(しゅつやく)(八州(はっしゅう)回り)が設置され、幕府領・私領を問わず悪党の摘発、処罰をおこなった。このため信州へ逃げこむ悪党が多く、治安が急速に悪化した。文化十三年、中之条代官男谷(おたに)彦四郎を信濃国総取締とし、信濃国の四陣屋から二人ずつ、計八人の手付が二人一組で巡回する悪党取締出役がはじまった。