享保(きょうほう)十五年(一七三〇)、初代上田藩主松平忠周(ただちか)の遺言により、二代藩主忠愛(ただざね)は弟忠容(ただやす)に、川中島領一万石の稲荷山(千曲市)、塩崎・岡田(篠ノ井)、今井・今里・上氷鉋(かみひがの)・戸部(とべ)(川中島町)、中氷鉋(更北稲里町)の八ヵ村のうち半分の五〇〇〇石を分知(ぶんち)した。塩崎・今井・上氷鉋村と上田領と分郷(わけごう)になった中氷鉋村の四ヵ村である。旗本陣屋は塩崎村におかれ塩崎知行所が成立した。知行所は、寛保(かんぽう)三年(一七四三)から宝暦六年(一七五六)までの幕府領期間をのぞき、明治二年(一八六九)まで存続した。
代々の領主は江戸常駐で、木挽(こびき)町築地(つきじ)(中央区築地)などの拝領屋敷に居を構え、幕府の軍役規定により多数の家臣団を抱えながら、将軍に中奥小姓(ちゅうおくこしょう)や奥小姓として仕えた。三代忠明(ただあきら)は蝦夷地(えぞち)(北海道)の踏査を二回命じられている。江戸住まいは支出がかさむうえに、五〇〇〇石の大身の旗本ともなれば武家同士のつきあいも格式相応に負担が大きいなど、財政支出は増大したと考えられる。
収入面についてみると、五〇〇〇石から収納する年貢高は、天明八年(一七八八)で二〇八九石余であった。これはすでに宝永三年(一七〇六)段階で石代納(こくだいのう)(金納)になっており、これを江戸へ搬送した。石代納相場を今井村でみると、寛保三年(一七四三)から文政十年(一八二七)のあいだに金一両につき七斗五升から二石五斗までと変動幅が大きく、年々の年貢金納額は不安定であった(鬼頭康之「塩崎知行所の貢租について」)。江戸時代後半には、「米価安値、諸色高直(しょしきこうじき)」の傾向にあったから、年貢収納金で財政をやりくりするのは苦しかったと考えられる。さらに、二度にわたる拝領屋敷の類焼で思わぬ出費がかさみ、財政状況の悪化を招いた。そこに、領民への臨時の課徴金が何回にもわたって課される原因があった。
今井村割番で、ときには現地代官をつとめた堀内家の「御用日記見出」(県立歴史館寄託)によると、寛保三年から文化四年(一八〇七)までの六四年間に約八五五〇両の領民への臨時課税があり、一年平均で約一三一両余の額に達した。これらの臨時課徴金は、領民に返済するのが建前であったが、享和三年(一八〇三)になると、「これまでの御入用金・御用達(ごようたし)金は残らず返済できない状況になってきた旨を領民にいい聞かせ」ざるをえない状況に立ちいたっていた。
天保八年(一八三七)七月現在、借財総額が二万二六〇〇両余にも達する(『塩崎村史』)状況に追いこまれた知行所では、同八年と十一年に財政の大整理がおこなわれた。それでも抜本的な打開にはなりえず、同十五年十一月には御用達・村役人・惣百姓らから「御収納のうち一ヵ年一一〇〇両にてお暮らしなさるべきよう」にとの要求を突きつけられ、それを約束した証文を領民がわへ渡さなければならなかった(「御借財調帳」篠ノ井塩崎『清水家文書』)。