真田幸貫(ゆきつら)は、文化十三年(一八一六)真田家に養子に入り、文政六年(一八二三)八月、幸専(ゆきたか)のあとをうけて八代藩主に就任した。実父は、幕府の寛政改革をおこなった老中(奥州白河藩主)松平定信である。藩主就任二年後に幕府が異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)を出すなど、海外情勢がきわめてきびしい時代であったことが、養父の路線を継承して挙藩(きょはん)軍事体制をとらせたが、挙藩軍事体制をとることは同時に、弛緩(しかん)した藩の全体制を引き締める施策をともなった。
まず、武器の製造や購入を積極的におこなった。「大砲は二〇〇門にとどまらず、小銃は三〇〇〇を下らない数をそろえ、とくに迅速に発弾できる小銃を製造することに成功し、そのほか気発銃・槍付銃(やりつけじゅう)・弾力銃をつくった」。この結果、世間では「武芸は松代、柳川(やながわ)(福岡県柳川市)立花(たちばな)藩と海内(かいだい)並べ称せし」(『一誠斎紀実』)といわれた。藩士の武芸奨励にも熱心であった。当時、藩士のなかにあった怠惰な気風を一掃し、武士身分としての自覚をうながし、文武両道を奨励した。下級武士や武士格の者たちを正確に掌握するため、「給人以下ならびに浪人格明細書名面(なづら)調べ帳」を作成させた。また、文政十年には百姓と百姓がもつ具足や槍(やり)・刀などの武器を調査し、いざというときに備えさせた。以上のような準備をしたうえで、軍役をきめた。たとえば一〇〇石以上は従僕三人、駄馬一匹、一二〇〇石以上は従僕三六人、駄馬三匹、鉄砲四挺というように、知行高に応じて従僕・駄馬・鉄砲をととのえさせた。
幸貫はまた、藩祖信之(のぶゆき)の顕彰をおこなうため、信之の霊を合祀(ごうし)した白鳥(しろとり)神社を重要視した。この神社は、もともとは海野(うんの)氏が祖先神として小県郡海野(東御(とうみ)市)に創建したものを、初代信之が松代に分祀(ぶんし)したものである。先代幸専が社殿を改築して信之を合祀し、景徳(けいとく)大明神と称したが、これを武靖(ぶせい)大明神に改めさせた。また、白鳥神社に神領二〇〇石を寄付したり、神馬(じんめ)二頭を寄進したりした。
文教の振興策では、河原綱徳(かわらつなのり)に『真田家御事蹟稿(さなだけおんじせきこう)』の編さんを命じ、初期真田家の系譜と事蹟を明らかにして、藩祖を顕彰し、藩の士気の向上をはかった。また、藩内の学問の振興のため文武(ぶんぶ)学校の設立をはかり、人材の育成にも熱心であった。天保十二年(一八四一)水野忠邦を首座とする幕府の天保改革に老中として加わり海防掛に就任したとき、佐久間象山を江戸藩邸学問所頭取(とうどり)に抜擢(ばってき)し、また藩医村上英俊(えいしゅん)にフランス学を学ばせている。
産業面では、養蚕・製糸業にたいする本格的な保護育成策に取りくむ。文化七年に設けられた糸市にはじまり、これを文政八年には糸会所に発展させ、さらに天保三年六月に産物会所を設置させた。このうち絹・紬(つむぎ)専売制は生産者の反発や商人間の対立を招き、膨大な資金の調達からも無理があったため中止されたが、殖産興業に成果をあげた。
幸貫の藩主在任中は、文政八年の凶作や天保四年から九年にわたる天保飢饉(ききん)があり、救荒対策の成否を問われた時期でもあった。幸貫は就任早々、凶作・飢饉に備えて領内村々に社倉(しゃそう)を設置して貯穀させ、また城内数ヵ所に米・雑穀を年々貯えさせた。これらは、天保飢饉のとき活かされた。また、飢饉の難渋者には松代町などで施行(せぎょう)をおこなわせている。弘化四年(一八四七)の善光寺大地震では、水害のなかった村々から人馬を集めて復興に役だてたり、川中島の八幡原(はちまんぱら)など四ヵ所で施行をおこなうなど迅速(じんそく)に対応させ、災害の甚だしかった山中をみずから巡検した。幸貫の施策は、藩政を活性化し、領民の自助努力を高めるなどみるべきものがあった。