黒船来航と諸藩の動向

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アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーの率いる四隻の黒船は、嘉永六年(一八五三)六月、日本に国交を求めて浦賀沖(神奈川県横須賀市)に到着した。当時、江戸に在住していた佐久間象山は、これを知って松代藩江戸屋敷に駆けつけ、藩命をうけて足軽などをつれ浦賀へ急行した。このとき象山は、「大砲・弾薬の準備は緊急(きんきゅう)を要する」とし、大砲をすえつける場所としては御殿山(ごてんやま)が最適であるから御殿山警衛を幕府に申しでるようにと進言した。これは国元の藩政をになっていた鎌原伊野右衛門(かんばらいのえもん)、長谷川昭道(しょうどう)らの反対にあい、実現にはいたらなかったが、このように黒船来航のとき松代藩の対応を先導したのは象山であった。

 翌年、ペリー艦隊が再来航したとき、松代藩は横浜の両国交渉場所の警衛を幕府から命じられた。松代藩の陣立ては、洋銃を備えた銃卒が四隊各二四人、大砲五門、天砲番士三〇人、長柄(ながえ)の槍(やり)四〇筋などで、その新式な装備ぶりは、いっしょに警衛にあたった旧式な小倉藩の火器とは比較にならなかった。

 黒船来航にあたって、国元では有事の備えのための負担が領民に課されていく。嘉永六年十二月、藩はペリー再来航に備えて軍夫役(ぐんぶやく)を村々から出させることをきめ、翌七月正月つぎのような触れを出した。①御用夫は二〇歳以上五〇歳以下のもので年番に勤める。②当月下旬出立して出府できるものを選定する。③出府人留守中の農事は、村中の助け合いで差し支えのないようにする、など一〇項目である。このため、数ヵ村が組合村をつくり、御用夫の取り決めをおこなった。たとえば、布野(ふの)村(柳原)・福島(ふくじま)村(須坂市)・福島新田村(朝陽)の三ヵ村では、①御用夫に出るものへは藩からの手当てのほか、一ヵ年に一人につきもあい金(合力金)五両ずつを差しだすこと。②御用夫が病死したときは、組合村で相談して家が存続できるようにすること、などであった。嘉永七年正月、領内村々へ割りあてられた御用夫は五〇〇人で、そのうち九七人が軍役夫として登録され、そのなかから一五人がまず出府することになった。


図31 高川文筌(ぶんぜん)筆「ペリー来航図」(真田宝物館蔵)

 上田藩川中島領では、嘉永六年六月、上田役所へ村役人をよびだし、つぎのような申し渡しをおこなった。「穀物を他所(よそ)へ売り払ってはいけない。もし穀物を売買せざるをえない場合は、上田へ出すか、組内で売買すること。たとえ一俵売りでも庄屋へ届けること」などである。また、川中島領全体で明(あ)き俵一〇〇俵とわらじ一〇〇足の拠出を命じた。ペリー再来航の七年正月には、①村々の公道へ昼夜一両人ずつ出て警戒にあたること、②風儀のよくない止宿人を置かないこと、など九ヵ条の心得を村々へ触れた。越後椎谷(しいや)藩は嘉永六年、ペリー来航で莫大な軍用金が必要だとして、問御所村(鶴賀問御所町)に金一三九両余、中御所村(中御所)に金一〇両、問御所村の豪農商久保田新兵衛には個人として一五両を課している。