長州戦争と領民の負担

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元治(げんじ)元年(文久四年、一八六四)七月、長州軍が京都御所(ごしょ)内に発砲した蛤御門(はまぐりごもん)の変(禁門の変)により、朝廷は幕府に長州藩追討を命じた。幕府は、中国・四国・九州の二一藩に長州征討の出兵を、他の諸藩には京都・畿内(きない)の守備がためを命じた。当時、御所警衛にあたっていた松代藩には、高島藩主で老中の諏訪忠誠(すわただよし)らから芸州(広島県)口から岩国(山口県)を攻撃する一番隊として出動命令がくだった。これをうけて、松代藩は翌八月、領民に高一石につき金二分の御用金を課したが、九月になると征討の先鋒(せんぽう)を免じられ、大坂伝法川(でんぽうがわ)川口の警備に転じられた。京都御所警衛から引きつづいて、大坂での任務が長引くなかで、松代藩は領内各村に高掛り御用達(ごようたし)金の上納を高一石につき金一両申しつけ、さらにゆとりのある個人には御用金や献金の上納を命じた(『山田中区有文書』)。

 また、松代藩は京都・大坂などへの出兵にともなって、夫役(ぶやく)として戦地におもむく御用夫を課した。この割り当ては組合村を単位とした。夫人(ぶにん)給(もあい金)は、組合村において村高割りによって徴収された。具体例を四ッ屋村(川中島町)など九ヵ村組合でみると、村高一〇〇石につき銀二一匁(もんめ)五分(ふん)七厘(りん)三毛(もう)の割合で徴収し、合計で銀三〇〇匁六分七厘となった。この組合村からの御用夫は一人で、一年で金二〇両かかった。

 これより先、文久二年(一八六二)十月、幕府は軍制改革の一環として、万石以下の幕臣(旗本)に知行高に応じて兵士を差しだすことを義務づけた兵賦(へいふ)令を布達した。兵士は一七歳から四五歳までの強壮のものに限り、五ヵ年季、給金は一ヵ年に金一〇両を限度とした。しかし、これには領民のもあい金負担がもくろまれており、第二次長州戦争開戦前の慶応二年(一八六六)二月、松代藩御預かり所の赤沼村(長沼)や西条組合上野(うわの)村(若槻)では、兵賦一人につき年に金三〇両を組合で負担するとした。兵賦人は、組合村の足もとをみて夫人給の増額を要求するケースがしばしばあり、村々にとっては大きな負担となった。

 元治元年八月、長州征討にあたって上田藩と高遠藩は、将軍徳川家茂(いえもち)身辺の警衛を任務とする左右備(さゆうぞな)え、松本藩は後(あと)備えを命じられたが、同年十一月、長州藩が幕府に恭順謝罪(きょうじゅんしゃざい)したため、出陣は取りやめとなった。しかし、翌元治二年(慶応元年)四月、長州再征となり、第一次長州征討のときと同様、上田・高遠両藩は将軍の左右備え、松本藩は後備えを命じられた。上田藩では、江戸から藩主松平忠礼(ただなり)はじめ士分九〇人、徒士(かち)・小役人四三人、足軽一三〇人、中間(ちゅうげん)一七〇人、持ち夫四二〇人、計八五三人が出陣し、上田からも士分二〇人など計三一九人が出兵した。荷駄は武器・雨具・長持・乗馬・大砲・小銃などであった。

 上田藩川中島領五ヵ村では、物資運搬のための夫人(人足)一七人が大坂表におもむき、金四七一両余が支払われた。また、五ヵ村へは総額で一七〇五両の調達金が課された。このうち調達できたのは、八三パーセント余にあたる一七〇五両であった。上田藩の分家筋にあたる塩崎知行所四ヵ村五〇〇〇石では、上郷(かみごう)の塩崎村(篠ノ井)では、持ち夫として陸尺(ろくしゃく)六人、お手回りとして御鑓(おやり)持ち二人、御草履(おぞうり)取り一人、御座(ござ)持ち一人などであった。下郷三ヵ村のうち今井村(川中島町)では、島田左門など上層百姓二一人に個人として二〇〇両から一五両まで、計一五二〇両が課され、別に今井村百姓五三人に二一〇両余が課された。他の二ヵ村にも調達金が課されたと考えられる。慶応二年三月六日から八日まで、殿様御武運長久の護摩(ごま)修行が今井村の切勝寺(さいしょうじ)と、塩崎村の長谷寺(はせでら)でおこなわれた。


図32 長州戦争芸州口のようす (真田宝物館蔵)