幕末期の松代藩において群を抜いて活躍したのは、佐久間象山と長谷川昭道(しょうどう)であった。
象山(実名はじめ国忠、のち啓(ひらき)。通称修理(しゅり)。号して象山)は、文化八年(一八一一)松代有楽(うら)町に生まれた。早くから秀才の誉(ほま)れ高く、天保元年(一八三〇)二〇歳のとき、藩主真田幸貫(ゆきつら)から学業勉励を賞された。二三歳のとき江戸に遊学し、林家(りんけ)の門をたたき学頭佐藤一斎(いっさい)に学んで帰郷し、同七年から三年間松代城内で儒学の月次(つきなみ)(月例)講釈をつとめた。二九歳のとき再度江戸へ遊学し、江戸神田お玉ケ池に象山書院を開き子弟の教育にあたった。同十二年から翌年にかけて江戸の藩学問所頭取(とうどり)となった。
天保十三年夏に、幸貫が海防係老中になり、象山に海外事情の研究を命じたことが、象山の目を海外に向けさせることになった。象山は伊豆韮山(いずにらやま)(静岡県韮山町)の幕府代官江川太郎左衛門(坦庵(たんあん))から高島流砲術を学んだ。また象山は、アヘン戦争で清(しん)国が敗北したことに衝撃をうけ、同年十一月幸貫に海防八策を上書した。このなかで象山は、①大砲をつくること、②軍艦をつくり海軍を装備することを強調している。同十五年五月に幸貫が老中を辞任してしまったため、象山は海防に関する知識を幕政に反映させることはできなくなったが、その後も嘉永年間(一八四八~五四)に大砲の鋳造をおこない、また各地で大砲の試射をこころみた。
嘉永六年(一八五三)六月のペリー来航にさいしては、前記したように、大砲を用い御殿山(ごてんやま)(品川区)警衛(けいえい)を幕府に申しでるよう象山は藩に働きかけたが、当時国元で藩政を担当していた家老鎌原伊野右衛門(かんばらいのえもん)や長谷川昭道の反対にあい実現をみなかった。このとき以降、恩田頼母(たのも)派に近い象山と真田桜山(おうざん)(志摩(しま))・鎌原伊野右衛門派に属する昭道とはことごとに対立することになる。
長谷川昭道は、象山の誕生に遅れること四年、文化十二年松代代官町に生まれた。通称は藩主幸貫から賜わった深美(ふかみ)、本名は正身(まさみ)などといくつかあったが、最終的には昭道と改めた。陽明学や国学を学び、藩主幸貫の世子幸良(ゆきよし)のもとで近習を勤めたが、天保十五年(弘化元年)八月の幸良早世後は代官に任命された。嘉永四年(一八五一)十月には、家老真田桜山のもとで郡奉行兼勝手元締役に抜擢(ばってき)された。従来、郡奉行は知行高一〇〇石以上のポストだったので、当時五〇石の昭道は例外であった。同六年には、前述のように御殿山警衛などをめぐって、恩田頼母・佐久間象山らと対立した。そのあと、藩主幸教にはまだ嗣子がなかったので、万一の場合を考えて真田桜山の倅(せがれ)を幸教(ゆきのり)の仮養子とするという「仮養子一件」問題がおき、桜山は失脚した。藩債調達のため大坂出張中の昭道も、国元に呼びもどされ免職謹慎となった。文久元年(一八六一)、あらためで蟄居(ちっきょ)を命じられた。
これより先象山は、嘉永七年(安政元年、一八五四)ペリー再来航のとき、長州藩士吉田松陰(しょういん)に海外渡航を勧めた罪により幕府から国元蟄居(くにもとちっきょ)を命じられていたが、文久二年(一八六二)十二月、長い蟄居生活を許され、京都へと向かった。これは幕府の松代藩への要請によるものであった。二年後、昭道も蟄居を許されたが、これは恩田派から真田派に政権交代したことが背景にある。昭道も上京し、元治二年(一八六五)二月に京都留守居役に就任した。象山が暗殺されたあとも京都にいて政情を見きわめ、松代藩を勤王倒幕へと導いた。