松代藩の廃藩

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幕末期の現長野市域は、松代藩領と松代藩の預(あず)かり所が大部分を占めていたが、椎谷(しいや)・飯山・上田・須坂の各藩領、幕府領、塩崎知行所(ちぎょうしょ)、善光寺領などもあり、入りくんだ支配となっていた。慶応四年(一八六八)一月の鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いから始まった戊辰(ぼしん)戦争をへて、明治四年(一八七一)七月の廃藩置県(はいはんちけん)にいたる過程は、封建社会の崩壊(ほうかい)と近代社会への転換という激動(げきどう)の時代であった。

 慶応四年二月、年貢半減令(ねんぐはんげんれい)をかかげて信州へ入ってきた相楽総三(さがらそうぞう)の赤報隊(せきほうたい)一番隊(のち官軍先鋒嚮導(せんぽうきょうどう)隊と改称)が「偽(にせ)官軍」として取りおさえられたあと、東山道鎮撫総督府(ちんぶそうとくふ)軍(東山道軍)が信濃国を通過した。松代藩領内の通行はなかったが、藩は太政官(だじょうかん)から信濃国一〇藩の触頭(ふれがしら)を命じられるとともに、東山道軍への出兵も求められた。また、食糧の調達、街道筋(かいどうすじ)の警備、人馬の準備などは信濃諸藩が分担し、松代藩は岩村田(佐久市)から上州安中(あんなか)(群馬県)まで担当した。二月末には東山道軍の命令で、甲府へ約八百人の藩兵を派遣した。藩兵全員が甲府から撤退(てったい)したのは明治二年三月のことで、出兵には七四九二両余の経費を要した。

 慶応四年四月、旧幕府歩兵頭(がしら)の古屋作左衛門(ふるやさくざえもん)が衝鋒隊(しょうほうたい)を率いて信濃へ向かうという情報を得た松代藩は、江戸城が開城しても、まだ情勢がはっきりしていないとして領内の守りを固めた。しかし、衝鋒隊が松本まですすむとの報告が入るとこれを防ぐことを決定し、京都・東山道軍へ急報しつつ、諸藩へも援兵(えんぺい)を依頼した。新井宿(新潟県新井市)から富倉峠をこえて飯山へすすんだ衝鋒隊にたいして、四月二十五日の朝はやく、松代・尾張両藩は総攻撃をかけた。これに呼応した飯山藩の攻撃もうけて、衝鋒隊は城下に火をつけて新井宿へ退却した。松代藩は二人の戦死者を出し、飯山では九百軒余が焼失した。この飯山戦争が信州における戊辰戦争のはじまりで、以後、藩兵が松代へ帰ってくる明治元年(慶応四年九月八日、明治と改元)十月まで、長岡・会津などを戦場にしたはげしい戦いがつづいた。

 この戦争は、松代藩に信州諸藩のなかでもっとも多くの犠牲者と最大の戦費を強いた。七ヵ月にわたる戦闘(せんとう)で出兵総数三二七一人、死者五二人(兵卒四二・軍夫(ぐんぷ)一〇)、使用した大砲弾薬は五千七百発余、小銃弾薬は九三万発余であった。戦場にはならなかったが、北信濃の民衆にも多大な負担がかかった。上田藩の飛び地の川中島の村々では慶応四年四月、越後へ軍夫三三人を交替(こうたい)のために出し、この費用二七六両余は村々で負担した。松代藩は、慶応三年(一八六七)から明治二年(一八六九)八月までの三年間に、緊急に必要との理由で計二〇回にもおよぶ才覚金(さいかくきん)(予想される必要資金)の調達をおこない、領民の負担は一万九千両余に達した。


写真112 戊辰戦争の戦死者を祀る妻女山招魂社の石塔裏面

 慶応四年八月、信濃の旧幕府領を統轄(とうかつ)する伊那県が設置され、翌明治二年三月には、伊那県中之条局・中野局が開かれた。いっぽう、諸藩では藩主が版籍奉還(はんせきほうかん)を上表し知藩事(ちはんじ)(藩名を上に冠(かん)するときは何々藩知事という)に任命された。松代藩の知藩事任命は同年六月二十四日でこれ以後、藩主の家禄(かろく)(初めの家禄は封地実収石高の一〇分の一とされた)制限や藩士の給禄(きゅうろく)・職制も改正されて、維新政府による中央集権化がすすめられた。

 明治二年から三年にかけて、通貨の混乱と凶作が民衆の生活に重くのしかかっていた。政府が発行した太政官札(だじょうかんさつ)は、諸藩が戦費調達で政府から借りいれたり、支払いに使用したりしたため大量に出まわっていた。しかし、政府の正金(しょうきん)(江戸幕府発行の金銀通貨)同様の通用の命令にもかかわらず、割り引きでしか通用せず、民衆の生活を圧迫するとともに、正金を手に入れようとする動きに拍車をかけた。善光寺町周辺では商人によって贋二分金(にせにぶきん)が持ちこまれた。二年七月、松代藩は二分金と引きかえるため済急手形(さいきゅうてがた)の発行を布告し、さらに贋金(にせきん)を広めたとして善光寺町で一九人、三輪村で二人を捕えた。七月から八月にかけて飯田、上田、会田・麻績(おみ)で贋二分金の引きかえ、年貢引き下げ、米価引き下げなどを要求して騒動が起こった。これに対処するため伊那県と諸藩では、信濃全国通用の銭札の発行を決め、松代藩では十一月から流通が始まった。年貢上納や贋二分金を担保にした貸し出しなどに使用され、松代藩の流通額は約一万四八〇〇両に達している。

 明治二年十月、政府は贋二分金一〇〇両にたいし太政官札三〇両をもって、贋二分金の回収をはかるよう命令した。騒動が頻発(ひんぱつ)する事態に直面していた県・藩にとって、これはとうてい実施できるものではなかった。伊那県では十一月下旬伊那県商社を設立した。県札を発行して二分金と引きかえるとともに、県内の生糸・蚕種(さんしゅ)を県指定の横浜売りこみ問屋(とんや)を通じて外国人へ売りわたし、貿易で得た利益などをもとにして、太政官札と贋二分金の等価交換(とうかこうかん)を企だてたものであった。しかし、政府は二年十二月に藩・県札の停止令を出し、三年六月には租税金の不正貸し付け、等価交換での贋二分金の回収などを理由に知事を更迭(こうてつ)し、さらに七月には県官吏を大幅に入れかえた。三年九月になると政府は、伊那県の管轄地(かんかつち)が広域で統治(とうち)が徹底しにくいとして、東・北信分をさいて中野県を設置し、あわせて中之条局を廃止した。

 藩札の停止令に直面した松代藩は、明治三年五月、大谷幸蔵(おおたにこうぞう)を頭取(とうどり)にすえて松代商法社を設立した。商法社為替(かわせ)手形(商社札)を発行し、領内の物産を独占して買いあつめ、横浜貿易による利益で済急手形の回収をめざしたが、蚕種・生糸価の暴落(ぼうらく)により商社札の価値は急落した。政府の三月末までの藩札(はんさつ)引き上げの厳命(げんめい)もあって、十一月に藩当局が出した商社札などの藩札と太政官札の等価交換などを骨子(こっし)とした対応策は、政府の意向により破棄(はき)され、ついに十一月二十五日、更級郡上山田村(現千曲市上山田)から一揆(いっき)が起こった(松代騒動(そうどう))。松代城下では焼き打ちにより一三九軒が焼失し、翌二十六日には善光寺町でも、贋二分金を扱った商家や高利貸・酒造を営む者、役人宅など多数が打ちこわされた。


写真113 松代商法社の為替手形
(『信州の紙幣』より)

 明治三年十二月には、騒動は須坂・中野へも広がった。とくに中野騒動では県庁焼き打ち、県官吏(かんり)殺害へと発展し、政府軍が鎮圧(ちんあつ)に出動した。政府は翌四年七月に廃藩置県(はいはんちけん)を断行し、松代藩は松代県となった。元藩主の藩知事(はんちじ)は解任されて華族(かぞく)に列し、家禄をあたえられて東京に移住した。それ以後、松代県は参事以下が政務を担当していたが、十一月の府県制三府七二県の再編成により長野県に編入されて名実ともに姿を消した。


図34 松代城(松代県庁)に別れを告げる真田幸民の一行
(桜井雪礫画、中村久吉蔵)