県庁が置かれる

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信濃善光寺のある長野村は、古来全国的な信仰の聖地であった。明治維新とともに県庁が置かれて、仏都(ぶっと)長野町が県都となり、市街の近代化が急速にすすめられた。

 長野県の前身は中野県で、大政奉還(たいせいほうかん)後幕府領・旗本領を管轄する伊那県が創設され、のち北信に中之条局・中野局が置かれ、明治三年(一八七〇)九月中野県となった。中野騒動で県庁舎(現中野市)が焼き打ちとなり、立木兼善権知事(たちきかねよしごんちじ)が四年五月十日、長野村のうち善光寺町への県庁移転と県名を長野県とする願いを出し、同年六月二十二日に認められ、西方寺(さいほうじ)への移転の細部が決まるのは七月であった。西方寺仮庁舎への引っ越しは七月二十五日で、執務は七年十月までつづいた。当時の行政機構は表8のようであった。


表8 開庁当時の長野県庁機構

 最初の長野県は、主に旧天領(幕府領)を管轄(かんかつ)する県であったが、四年七月の廃藩置県につづく地方行政制度の改正で、同年十一月二十日東北信六郡を管轄する長野県となった。さらに、九年(一八七六)八月二十一日筑摩県の中南信四郡をあわせて、旧信濃国一〇郡が長野県となるのである。

 県庁舎の西方寺は、本堂に赤絨毯(あかじゅうたん)を敷き、机・腰掛をそなえ、火の見櫓(やぐら)を建て、糾問所(きゅうもんじょ)の庭に白洲(しらす)を設け、訴訟所(そしょうじょ)と収監所(しゅうかんじょ)を置いたという。徒刑場(既決)は腰(こし)村盲塚に、牢屋(ろうや)(未決の囚獄(しゅうごく))はそれぞれ明治六年三月三輪村橋場に設けられたが、司法は八年に裁判とともに行政から独立した。県域が東北信六郡に拡大して新しい行政組織となり、県庁新築のため六郡から惣代藤井伊右衛門ら七人が営繕掛惣代に任命され、明治五年七月一日庁舎の建設地が、腰村袖(そで)長野(西長野町現信大教育学部の地)に決定した。庁舎は七年十月二十日に落成し、県庁へ通じる大門町からの道を「新道」といい、のち若松町となった。県庁周辺には翌八年十二月長野県師範学校(現市立図書館の地、文化25頁52)、十一年には県営の勧業施設製糸場(旭町)・裁判所(立町)が設けられ、十一年九月明治天皇の巡幸を迎えている。


図35 長野県庁設計略図(明治7年)
(県行政文書『県庁新築一件』により作成)

 明治新政府は、諸藩の版籍奉還(明治二年六月)後、全国を統一した地方行政運営の基本となる戸数・人員を把握(はあく)するため、四年に戸籍法を公布し、各府県に戸籍区を設けて戸長(こちょう)をおいた。また、五年四月には、庄屋(しょうや)・名主(なぬし)・年寄の廃止を布達し、戸長は戸籍事務と土地人民に関するすべての行政を取りあつかうものとした。

 長野村ほか三一ヵ村は第五十四区で、戸長は長野村の矢島吾左衛門と露木彦左衛門であった。七年七月大区小区制に改め、大区・小区に正副区長、町村に用掛(ようがかり)・代議人を置いた。明治二十二年の町村制で長野町は地方自治体となり、三十年には市制を施行して長野市となった。その経過は表9のようである。


表9 長野町の広がりと市街への名称変更

 明治天皇は即位以来親しく国民に接するため、地方巡幸をほとんど毎年つづけ、長野町へは東海北陸巡幸で明治十一年九月八日行幸された。岩倉具視(ともみ)・大隈重信(おおくましげのぶ)・井上馨(かおる)・大山巌(いわお)ら七百人近い行列(輿(こし)と馬四二頭)で到着し、善光寺大勧進(だいかんじん)が行在所(あんざいしょ)となった。翌九日には楢崎県令(ならさきけんれい)の県治概況の上奏をうけ、器械製糸の勧業製糸場と長野県師範学校へ行幸した。御座所(ござしょ)の教師館から出て通路に白布を敷いた本館二階の大広間で天覧授業がおこなわれ、師範生一二人に教師小林常男が、小学生(長野学校一六人・上田松平(しょうへい)学校九人・常磐城(ときわぎ)学校三人・坂木格致(かくち)学校二人、みな行幸を願いでた学校)に堀川常吉が教授した。ここから立(たつ)町の松本裁判所長野支庁を巡視、午後は善光寺から新設された道を城山の高台に設けた仮(かり)宮へ着いて川中島古戦場を遠望し、翌十日に北国街道を関川(新潟県)に向かった。天皇は初めて地方の実情に触れ、県民も天皇に接することができたのである。


図36 『長野町全図』明治12年(1879)7月10日版の長野県庁付近図