行幸のころには善光寺の堂庭(どうにわ)が元善(もとよし)町となり、大門町から北国街道の石堂町へかけて、仏都の幹線が市街地化している。その西方の田園地帯の妻科村に、県庁前通りの旭町・県(あがた)町が形成されて、近代の新しい市街の幹線ができた。
新庁舎建設二ヵ年後の明治九年には、長野県は信濃一〇郡となり、関連して県庁周辺に諸機関・諸施設が設けられた。その状況は表10のとおりである。
善光寺参詣客相手の院坊・旅籠(はたご)・土産物(みやげもの)店・飲食店のある元善町・大門町・西之門町・西町・東之門町・東町など門前町界隈(かいわい)は、本陣藤屋をはじめ老舗(しにせ)が軒を連ねて、古風を維持しながら印刷所・書店・洋品店等の洋風化が進められたのである。
県庁を核とする新市街地の旭町・県町通りは、近代的特徴をもっていた。県庁とともに中野町から長野町へ移転してきた犀北館(さいほくかん)(初め東横町、花咲町から現在地へ)をはじめ、旅館は県庁前から鴻静館(こうせいかん)など数軒あり、洋服・洋品・文房具・運動具・菓子・理髪など洋風の店と、とくに多く開業したのは医院・薬剤師などの医療機関で、その他情報機関の新聞社や、教育団体・教会などであった。明治二十二年市制・町村制により地方自治体となった長野町は、長野・南長野・西長野・鶴賀(七瀬を除く)の四町と茂菅(もすげ)村を合併して、役場は立町に置いた。まず町会議員三〇人の選挙がおこなわれ、町長は議員によって選出され樋口兼利(元長野町戸長)、助役は原山太吉であった。戸数五五九六・人口二万四五二九人の規模で、明治九年の最初の長野町(長野・箱清水)にたいして、戸数が二・六倍、人口が三・二倍となっている。
明治二十年代の長野町から、三十年に長野市となるまでの公的施設を中心とした施設・機関の設置状況と明治中期の市街の発達は、表11のとおりである。二十一年の直江津線長野駅の開業とともに末広町・千歳(ちとせ)町が形成された。二十六年の高崎・直江津間鉄道全通、三十五年の篠ノ井線(篠ノ井・塩尻間)の開通と四十四年の中央線全通によって、市街と施設は大きく変化し、善光寺と県庁を頂点として長野駅周辺にいたるV字形の幹線沿いには日本赤十字社長野支部・郵便電話局・国鉄工場、大林区署・信濃銀行など、産業経済と市民生活、中等学校の拡充がめだっている。
明治三十年市制の施行によって、県内最初の市である長野市が四月一日発足した。