信濃毎日新聞と郵便のはじまり

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明治四年(一八七一)の十一月に、東北信六郡を管轄(かんかつ)する長野県が発足した。県ではつぎつぎに出る法令や布達などを伝達するための広報(こうほう)手段として、県庁御用(ごよう)新聞発行の必要に迫られており、また、新聞によって民衆を啓蒙(けいもう)する必要も認めていた。すでに、東京を中心に新聞の発行があいつぎ、五年十月には隣の筑摩県でも県庁所在地の松本町で『信飛(しんぴ)新聞』が発行されていた。

 明治六年七月五日、長野町で『長野新報』が発行された。縦二一センチメートル、横一五センチメートル、表紙もふくめて袋とじ七枚一四ページをこよりで綴じた小冊子で、裏表の表紙は従来どおりの木版(もくはん)だったが、本文は活字を用いた活版印刷であった。


写真114 『長野新報』第1号

 『長野新報』は、長野県が県庁出入りの印刷屋、蔦屋(つたや)岩下伴五郎にすすめて発行させたもので、社名も新時代にふさわしく「新しきを需(もと)める」需新社(じゅしんしゃ)であった。蔦屋は江戸期以来の老舗(しにせ)書店である。発行にあたって県は印刷機や活字の購入資金を貸与し、県役人の村松秀茂らに編集の指導をさせた。しかし、当時はまだ活版印刷機を扱える者がいなかったため、東京日日新聞社から技術者を招かなければならなかった。本局(本社)は大門町の岩下の自宅に置き、地元の長野のほか県内の松代・中野・飯山・岩村田・小諸、県外の東京・安中・高崎・松本の各地にも売りさばき所を置いた。当初の発行部数は四、五百部だったという。

 『長野新報』の「拡言(こうげん)」(発行の辞)には、「西洋の文物を紹介して新知識を広め、頑固(がんこ)の風習をつみとり、文明開化の気風を送りこむことが本新聞の目的である」と述べている。第一号には、立木兼善権令(たちきかねよしごんれい)の福岡への異動、県下の人口統計などのほか箱清水村の用水工事や火事の記事などがあり、別に読者にたいして「奇事異聞(きじいぶん)」の寄稿を求める文もある。

 定価は、一冊三銭で月五回発行の計画だったが大幅に遅れた。三銭という値段は、当時の米価一升約四銭に近い高額で、庶民が購読するのはむずかしく、ほとんどは町村や戸長役場に購入された。第五十区(芋井地区)では八月にはいってから、中牛馬回章(ちゅうぎゅうばかいしょう)など県庁からの書類といっしょに各村へ配送されている。二号が発行されたのは明治六年十月であった。三号は翌七年一月『官許長野毎週新聞』と改題して発行、片面刷り一枚の週刊で、定価は一部一銭とした。発行部数は思うようにのびなかったが、地域によっては戸長が区民を集めて読みきかせるようなところも出てきた。九年五月に『長野新聞』と改題、十三年一月六日に『長野日日新聞』と改題して日刊にすると、年間総発行部数は二八万八〇〇〇部(一回に約一六九〇部)に達し、『信飛新聞』の後身である『松本新聞』の部数をこえた。また、同年八月『信濃日報』と改題している。

 しかし、十三年九月に自由民権色の強い『信濃毎日新報』が創刊されたため、競合(きょうごう)の末、両者共倒れの状況になった。そこで『長野日日新聞』から支援を求められた小坂善之助・島田忠貞らは共同経営による企業化をもくろみ、競争紙も吸収して、十四年六月『信濃日報』が『信濃毎日新報』を吸収合併する。

 明治五年七月一日、大門町に善光寺二等郵便役所、塩崎に篠ノ井四等郵便役所が開設され、九月には、松代・新町(あらまち)(若槻東条)・丹波島(たんばじま)・上駒沢にも郵便取扱所が設置された。郵便はそれまでの飛脚(ひきゃく)にかわる官営事業で、「早く、安く、安全に、だれでも」利用できることを目的とした。当初は、東京・金沢間(郵便大道路)、長野・名古屋間(郵便中道路)沿いの主な宿場にのみ置かれ、一日一回の逓送(ていそう)を始めたが、のちしだいに拡充整備され、七年には東和田・上ヶ屋(あげや)・笹平・高野・上小島田(かみおしまだ)にも郵便取扱所が置かれた。郵便路線も長野・柏尾(かしお)(飯山市)間、新町(あらまち)(若槻東条)・飯山間、長野・竹生(たけぶ)(小川村)間、篠ノ井・小島田間、松代・丹波島間、長野・上ヶ屋(芋井)間、篠ノ井・新町(しんまち)(信州新町)間にも開設され、毎日もしくは日をきめて脚夫(きゃくふ)が定期的に郵便物を運搬(逓送(ていそう))した。取扱所の設備も当初は、居宅のひと間へ座机と筆硯(すずり)をそなえ、壁に高張り提灯(ちょうちん)、弓張り提灯をかけ、表に「郵便取扱所」の看板をかける程度で、配達にも時間がかかったので「郵逓(ゆうてい)三里十日」とからかわれることもあったが、利用者はしだいに増え、八年には郵便取扱所も郵便局と名称が統一された。

 取扱物も、最初は封書だけだったが、六年十二月には端書(はがき)が発行され、八年には為替(かわせ)、十一年には貯金事務も扱うことになった。電信は明治十一年、明治天皇北陸巡幸にさいして敷設され、同年九月には長野電信分局が開局していたが、三十六年には郵便局で取りあつかうことになった。郵便料金も当初は距離によってまちまちだったが、のち三区分になり、十六年の「郵便条例」によって、全国同一料金となった。


写真115 明治5年の『書状集箱』

 善光寺二等郵便役所は、七年に長野町郵便役所、八年には長野郵便局と改称し、場所も大門町・新町・栄町・西町へと新築移転した。明治四十二年には長野と鶴賀とで誘致(ゆうち)運動がおこなわれたが、折衷案(せっちゅうあん)として中央通り沿いの西後町へ移った。