日新館から国民皆学へ

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士族・平民の区別なく入学できる学校が、最初信州に設けられたのは、川中島小学校の前身の日新館(にっしんかん)であった。この学校は明治二年(一八六九)六月五日、今里村古森沢の坂口家の建物で開校した。これは学制前の郷(ごう)学校で、全国最初の京都上京区第二十七番組小学柳池学校の発足から一五日後の、維新初期のもっとも早い時点であった。創立者は、今里村と中氷鉋(なかひがの)村の庄屋や医者など七人で、教師として招かれたのは、松代藩の青年儒者(じゅしゃ)小林常男(畏堂(いどう)の養子、河田迪斎(ゆうさい)の子息)であった。教授したのは漢学・筆学・算術で、このあと小林は県内の近代教師第一号というべきリーダーとなっている。


写真116 日新館跡の碑

 長野県は、明治四年十月十四日管下に郷学校の設置を布達した。各区に民費で学校を設立し、七歳から一五歳まで身分と性の別なく就学させるという、近代学校の先駆(せんく)的性格をもっていた。県の下問(諮問)にたいして、県庁下の大門町など九町と千田村など一八ヵ村が協議して意見書を作成し、大学校一ヵ所、大村あるいは最寄の村で各一校を設ける案を上申している。県は十月十四日、県学を妻科村正法寺(しょうぼうじ)(後町本願寺別院)に設置することを布達した。教師には首座として松代の山寺常山(やまでらじょうざん)を招き、井上椿蔭(ちんいん)・秋野太郎らが皇漢学(こうかんがく)・算術などを教授する陣容であった。謝儀(しゃぎ)(授業料)は無料で、入門簿にある志願者は一八〇人、高井郡から小県郡におよび、県庁下では立木権令の長男など官員と、僧侶・商家の子弟が名を連ね、七歳から三六歳までで、四年十一月十一日開校している。その後各区に設けられた郷学校は百余ヵ所あったと、明治六年の『長野県学事年報』に報告されている。第六二区では各村の名主が世話役で教師は四人、生徒五〇人ばかりを、長沼津野村妙笑寺(みょうしょうじ)と金箱村信叟(しんそう)寺の二ヵ所で、授業を交替に実施した。日新館と同様に民費による人民共立の学校で、設置形態は近代学校であったが、教育内容は旧来の素読(そどく)と和算であった。

 近世の教育は各藩別であったが、明治新政府は全国一律の教育制度として、フランスに範をとった「学制」を明治五年(一八七二)八月三日公布した。その序文に「邑(むら)ニ不学ノ戸ナク家ニ不学ノ人ナカラシメンコトヲ期ス」とのべて、国民皆学がこの制度の趣意であることを宣明した。国民の文盲(もんもう)追放は、日本近代化の前提であり、全国に小学校を広めることが重要な文教施策であった。

 小学校の設立は、学制公布の翌六年五月開始された。近代教則でない旧学は廃止され、近代教師を養成するため、長野県は小林常男ら七人の教師を官立東京師範学校へ派遣して、米人スコットから教則・教授法の伝習を受けさせた。この伝習生によって九月から大勧進(だいかんじん)で教員講習が開始された。受講後、試験認定で教員資格が与えられ、順次県内の学校へ配置し、無資格の授業生を監督指導し、正則教授の実践を期したのである。

 長野学校は、学区一〇町から一三人の学校世話方(せわかた)が選ばれ、校名は「第六大学区(新潟本部)第十四中学区第一番小学長野学校」であった。県の講習所と併設で、校内に教育実習の附属学級を設け、伝習(でんしゅう)教員が併任された。六年十二月五日城山の宝林院(ほうりんいん)で、校舎開きをおこなったが、教授(授業)は九月二日に開始されていた。小学校創業期の四年間に長野市域には七四校創立され、表12のように明治六・七年に八八パーセント発足している。これは下等小学(八等級四年)で、上等小学(同上)は十年から設けられるのである。


表12 現長野市域小学校の創立

 小学校の就学率と学資統計は、住民の教育的関心と、教育重視のバロメーターで、教育県の評価の指標となった。明治九年、筑摩県と合県の年、就学率が六三・二パーセントで全国(平均三八・三パーセント)第一位であった。これは近世における寺子屋の普及の成果とみることができる。しかし、小学校は経費がかかり、住民による暴動が各地で発生し、長野町でも最初は入学者が少なく、就学率の向上は世話方の最大の責務であった。明治十二年の自由教育令で、就学は全国的に低下し、十年代の長野町の状況は、一般に不就学が多く、その原因は貧困で、保護者が児童を家業の労働力とみる旧観念がわざわいし、女子に学問不要の古い教育観があったからである。そのため県は啓蒙につとめたり、科目に裁縫を加えたりした。

 国民皆学をめざして、長野県は明治十五年に「就学督責(とくせき)規則」を定め、県内の就学率は向上に向かった。三十二年には県の重点施策として就学の普及と施設の改良をかかげ、女子の就学率も二年後九〇パーセントをこえ、校舎の完備もすすめられて、長野県は二〇世紀の初頭に「教育県」の名声を全国に高めた。その間に長野町は子守(こもり)教育所(明治二七)、長野市になって盲人教育所(明治三三)、唖(あ)人教育所(明治三六)を設け、県は尋常小学校特別学級規程を設けて、子守・工女などの就学の便をはかって、不就学者の解消につとめた。イギリスの学者R・P・ドーアは、日本が四半世紀の短期間に文盲追放をほぼ達成したのは、世界の奇跡だと驚嘆(きょうたん)している。