信越線の開通と商工業の発展

320 ~ 324

鉄道が直江津から長野まで開通したのは、明治二十一年(一八八八)五月一日である。当日の長野停車場(駅)には、汽車というものを一目見ようとする人たちが、ぞくぞくと集まってきていた。群衆が狭(せま)い駅舎に押しあいへしあいしていると、乗客と荷物を乗せた列車が入ってきた。「イヨー、奇妙(きみょう)だあー」「恐ろしいものじゃー」などという叫び声があがった。これは、新橋・横浜間の鉄道開通から一六年目のことである。当初この鉄道は「直江津線」とよばれていたが、明治二十二年から「高崎直江津間鉄道」(軽井沢・高崎間は未開通)、二十八年からは線路名統一で「信越線」(仮称、明治四十二年十月十二日正式公示)となり、さらに高崎・長野・新潟間が大正三年(一九一四)六月一日正式に「信越本線」とされた。

 鉄道技師として日本政府に招かれたイギリス人リチャード・ヴィカース・ボイルは、日本の鉄道開発計画にあたった。ボイルは明治七、八年にわたり、東京・京都間をつなぐ幹線鉄道敷設計画調査のため、長野県、筑摩県(ちくまけん)(明治九年長野県に合併)に入って調査をし中山道(なかせんどう)幹線計画を立てた。それは東京から高崎、上田、松本とすすみ、洗馬(せば)、木曾福島とおよそ現在の中央線に沿って岐阜県に入る本線計画と、上田から松代、飯山をへて新潟にいたる支線計画であった。

 明治十年代後期に入ると、地方の各地で鉄道建設熱が高まってきた。長野町で中牛馬(ちゅうぎゅうば)会社(運送会社)を経営していた中澤与左衛門は、新潟県の室(むろ)孝次郎(西頸城(くびき)郡長、のち衆議院議員)ら八人と発起人となって、上田から直江津をへて新潟にいたる信越鉄道会社の設立を計画して、明治十七年(一八八四)四月に長野・新潟両県令(知事)に請願した。これをうけて長野・新潟両県令は、五月一日に連署して政府に、直江津・上田間鉄道敷設(ふせつ)についての上申書(じょうしんしょ)を提出した。

 しかし政府は、「上申書の鉄道計画は、日本海と太平洋を結ぶ重要路線であるから、民間による鉄道敷設は不適当である。国家が敷設すべきである」として認可せず、明治十八年三月官営経営認可により、準備を始め七月には着工した。人口増加のいちじるしい東京の需要を満たすための新潟米・石油などの移入と、政治・経済・軍事上で日本海側と東京を鉄道で結ぶことが必要であると考えたからであった。明治十九年八月には直江津から関山まで開通し、二十一年五月に長野まで開通し、直江津・長野間は三時間三〇分で結ばれた。この三ヵ月後の八月には、上田までの延長が実現した。上野から高崎までは、すでに明治十七年に開通していた。直江津とほぼ同時に起工した軽井沢からの工事も順調にすすみ、二十一年十二月一日には直江津・軽井沢間一四八キロメートルが開通した。しかし、軽井沢と高崎を結ぶ路線は、急坂の碓氷(うすい)峠をひかえていて難工事(なんこうじ)であった。二十一年に長野中牛馬会社が高崎中牛馬会社と共同して碓氷馬車鉄道会社を設立し、横川・軽井沢間の乗客・貨物の中継(ちゅうけい)輸送から鉄道建設資材の運輸にあたった。工事は大小二六ヵ所延四四五九メートルのトンネルを掘り、横川・軽井沢間一六キロメートルの急坂はアプト式レールで乗りこえ、明治二十六年四月一日に開通し、ここに待望の直江津・上野間の開通が実現した。

 信越線が開通し、現長野市域に長野駅と篠ノ井駅が設けられ、明治三十一年に吉田駅(昭和三十二年、北長野駅と改称)が設置されると、鉄道からはずれた北国街道の宿場は急速にさびれ、運送業者たちは仕事がなくなり痛手をうけた。長野駅は芹田(せりた)村源田窪(くぼ)に設けられた木造平屋建の小規模のものであったが、狭いという苦情が出て明治二十五年に待合室を増築し、三十五年には二階建てに改築した。長野駅が開業すると、旅館の藤屋・扇屋(五明館)・やま屋などが駅前に支店を出し、問屋・倉庫・茶店などもできて、かつての田園地帯に町ができあがった。駅と中央道路や県町(あがたまち)通りと結ぶ道路として二十一年に第一線路(末広町通り)と第二線路(石若町通り)、そして二十二年に権堂町と結ぶ第三線路(千歳町通り)を開通させたので、この道路沿いにも商店が設けられていった。


図37 明治24年(1891)「長野町明細図」の駅付近


図38 長野停車場(左がわの平屋)
(「扇屋の引札」の部分)

 篠ノ井駅は篠ノ井の中心部から離れた布施高田村(二十二年に布施五明村と合併して布施村)の辺地に設けられたので、駅名を布施高田駅にすべきだという意見も出ていた。しかし、駅前道路が北国街道と結ばれると、しだいに集落が形づくられていき、三十三年に篠ノ井線との分岐点となると、交通運輸上の拠点として急速に発展した。吉田駅は上高井方面の強い要望で設けられたもので、設置後は製糸業地の須坂の製品や原料・燃料などの集散駅となり、周辺も商店などができてにぎわっていった。

 長野・東京間は徒歩だと五、六日かかったのが、約九時間で行けることになった。信州からの郵便物は東京市内には二、三日で配達されるようになり、貨物輸送量は急速に増え、運賃は安くなり、商品流通のうえでも大きな影響を与えた。直江津方面からの米・塩・鮮魚が安定的に供給され、東京方面からは、金属製品・綿糸・綿織物・洋品物・砂糖・マッチなどの日用品が供給され、長野市域からは、繭・生糸・麻・酒・米・雑穀・種油(たねあぶら)・石油などを積みだして商品流通が活発化し、商工業を発展させた。当時の新聞は「長野県から見れば新潟県は倉庫であり、新潟県にとっては長野県は金庫である」と報じている。このあと、流入人口の増加がいちじるしく、そのうちの三分の一は新潟県人といわれた。明治二十四年四月から翌年三月まで一年間の、長野駅の貨客の動きは表13のようである。二十三年に長野駅に総建物面積五三〇坪もある大工場、鉄道局長野出張所器械場(三十六年に器械工場)が創設された。商取引が増えたので、二十七年には長野米穀取引所も設置された。


表13 長野駅1年間の貨客

 いっぽう、中央線方面の鉄道敷設は、中山道鉄道案が建設費、工期、経済効果などから東海道線に変更になったので、着工が遅れた。松本の青木貞三らの商工業者は甲府の有志とはかり、明治十九年(一八八六)に甲信鉄道会社として、松本・諏訪・甲府・御殿場(ごてんば)・東海道線接続の鉄道敷設を請願した。翌二十年仮免許(かりめんきょ)が出たが、実現にいたらなかった。信越線に次いで開通された県内の鉄道は、「篠ノ井線」である。三十三年十一月に篠ノ井・西条間が開業し、三十五年までに塩尻まで開通し、現在の篠ノ井線(篠ノ井・塩尻間)が全通した。二六五八メートルの冠着(かむりき)トンネルをはじめ第二白坂(しらさか)トンネルなど、八つのトンネル工事は難工事であった。篠ノ井線開通で重視されたのは、諏訪地方の製糸工場の蒸気製糸の燃料として用いられる西条の石炭であった。西条駅から塩尻駅まで運ばれた石炭は、中央東線が全通していなかったので、鉄索(てっさく)を用いて峠越えに平野村(現岡谷市)に運ばれた。八王子・名古屋間を結ぶ中央線工事は、明治二十九年(一八九六)に両方から同時に着工された。長野県内に延びてくるのは遅かったが、三十九年六月に岡谷・塩尻間が開通し、四十四年五月に木曾の日義村宮ノ越で接続して全通した。この鉄道は「中央本線」と称し、篠ノ井線と結び、長野・名古屋間に直通列車が走るようになった。