明治六年(一八七三)三月、松代町から一六人の娘が、官営富岡製糸場(群馬県)へ工女として入場した。横田数馬(かずま)(のち十三大区副区長)が募集に奔走した成果であったが、そのなかには自分の娘の英(えい)もふくまれていた。横田英らは一年余の製糸技術の伝習をうけたあと、七年七月に松代町へ帰郷し、西条(にしじょう)村に完成したばかりの西条村器械製糸場(五〇人繰り、明治十一年より六工社(ろっこうしゃ)と改称)で製糸に従事しつつ、一般工女にたいする技術指導にあたった。
この製糸場は、士族授産(しぞくじゅさん)事業として西条村住人の大里忠一郎らによって、総経費二九五〇円を投じて設立された。当時、長野県内の大製糸場としては、深山田(みやまだ)製糸場(明治五年、現諏訪市)、雁田(かりた)製糸場(同六年、現小布施町)、中野製糸場(同年、現中野市)が先陣をきっていた。製糸経営にとって重要な点は、優等工女の養成のほかに優良繭確保とその購繭(こうけん)資金をいかに調達するかにあった。明治十、二十年代の六工社は、内務省へいくども拝借金願いあるいは拝借金返納延期願いを申請した結果、聞きとどけられて難局をきりぬけた。政府はこうした士族授産事業には手厚く遇したが、明治四年の中野騒動によって焼けだされた貧民を救済する目的で設立された中野製糸場(明治十年代なかばの社長は上水内郡檀田(まゆみだ)村の荒木佐右衛門)にたいしては冷淡に対処した。
富岡製糸場と同様の共撚(ともより)式(フランス式)繰糸器械を導入していた松代地域の製糸場(表14)では、信州エキストラとして全国に名を馳(は)せた優等糸が生産されていた。しかし、諏訪、須坂地方の製糸業が発展するにつれ、良質繭の確保が困難となり、また各社で養成した優等工女も他地域の製糸場へ流出するようになった。これらの結果が錯綜(さくそう)して明治四十五年(一九一二)に松代町の六工社と白鳥館(はくちょうかん)が倒産し、第一次世界大戦後の大正九年(一九二〇)に窪田(くぼた)合名会社(窪田館)が、翌十年にはつづいて松城(しょうじょう)館が破綻(はたん)するなど、松代製糸業は大きな打撃をこうむった。この状況は図39によって示されている。
明治二十二年から四十二年までの桑園面積は、三・一倍と、最大規模を示したことにみられるように、上水内郡では山間奥地まで広がり、製糸業に触発されて養蚕業はおおいに発展した。
明治三十五年二月に蚕種名称を整理することを目的として、各郡の蚕種同業組合から選出された委員で構成される蚕種類調査会が開かれた。そこでは、春蚕について二五三種の名称が提示されたが、そのうちで多かったのは、又昔(全体の一九・五パーセント)、中巣(同一七・四パーセント)、小石丸(同九・九パーセント)などである。糸質の均一化をはかるために、雑多な蚕種を統一することは、その後も蚕糸業にとって大きな課題であった。
更級郡真島村の蚕種家中沢源八は小石丸、中巣、又昔を製造販売していた。同家の『春蚕種売捌(うりさばき)帳』(明治三十一年九月)によれば、種紙の販売状況は同村真島組六一枚、本道組六〇枚、北村組三六枚をはじめとして同郡内二六〇枚、そのほか埴科郡寺尾村牧島(一三枚)、上高井郡保科村(八枚)など三〇枚と、居村(真島村)を中心として広範囲にわたっている。この時期には地元の零細(れいさい)蚕種家がそれぞれの得意先農家に自前の蚕種を売りこんでいた。
明治十年代から各郡・町村で勧業会・農談会が組織され、講習会・種子交換会・品評会や改良農具の導入・肥料の共同購入などを通じて農業生産力の増進をはかろうとした。こうした老農や篤農家(とくのうか)を中心とした地域活動は明治二十九年の農会準則によって農会として整備され、また、三十三年の産業組合法によってさらに効果をあげた。産業組合の信用・販売・購買・生産(利用)のうち、信用事業はどこでもさかんであった。
長野市の水稲一反(一〇アール)あたり平均収量は明治三十年代の一石四斗ないし一石七斗から四十年代の二石七斗に、更級郡では三十年代前半の一石九斗から同後半以後の二石一斗に高まっているが、山間地をかかえた上水内郡では三十年代の一石五斗水準のままとなっている。その結果、土地生産力格差を反映して、明治四十年の水田小作地率は長野市が最高の七一・六パーセント、更級郡五四・九パーセントなど五〇パーセント以上であったのにたいして、上水内郡では三五・八パーセントにとどまっている。もともと過剰人口をかかえていた農家では、小作地率が高まるにつれ、子女を製糸工女として家計補充的賃稼ぎのために送りだしていった。