長野町・松代町などの大火と消防

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明治以降、現長野市域では多くの火災にあったが、焼失棟数二〇〇棟・同戸数一〇〇戸、罹災(りさい)者数五〇〇人をこす大火は表15のようで、六回、五場所におよんだ。そのすべての大火が、明治・大正年代で、いずれも消防の組織や器具などの設備がとぼしい状況下のものであった。


表15 現長野市域の大火(200棟以上)

 明治二十四年(一八九一)四月・五月・六月と三度にわたって頻発(ひんぱつ)した松代町と長野町の大火のころには、各村や町に消防組はつくられていたが、自治体単位での統一した消防組織はなく、二十三年三月の県訓令により、消防組は警察の監督(指揮)下にあった。また、消火に必要な器具も竜吐水(りゅうとすい)とよばれる初期の手押し器具と、あとは各自が手にもつ水桶(みずおけ)・竹梯子(はしご)・筵(むしろ)・大団扇(うちわ)・提灯(ちょうちん)などにすぎなかった。

 とくに、長野町は善光寺門前町として町家(まちや)の密集がすすんでいるうえに、まだ上水道の敷設(ふせつ)もなく、水利の悪さで名が知られていた都市であった。加えて二度の火災とも当夜は強風にあおられて、五月の火災は、警官や消防組の消火活動も効果がなく、火勢は一気に伊勢町・岩石(がんぜき)町・東横町・東之門町・法然堂(ほうねんどう)町・新町などにおよんだ。六月の火災は、上西之門町・西之門町、元善町などが焼け、善光寺仁王門・大本願・長野(城山)小学校なども焼失した。

 しかし、当時は駆(か)けつけたいくつもの消防組の統一がすすんでいないためその人数は多かったが、効率のよい消火活動はできなかった。着任間もない浅田徳則知事は長野警察署に出張して万事を指揮し、警察本部は総出で火災処理にあたった。近隣の警察署長も巡査と消防組を率いて応援にかけつけた。

 この大火では、善光寺大本願・仁王門など貴重な文化財が焼失したこともあって、今後どのように長野を火災から守るかに町民の関心が集まった。火災後の「信毎」は、今後への提言として、①建物を耐火構造にし、各戸の間に間隙(かんげき)を設ける。②隣家からの延焼(えんしょう)は窓からが多いので、窓戸は上戸か金戸に改める。③防火用水を町々に通し、各所に溜池(ためいけ)を設ける。④全町の消防組が連携して消火活動にあたるため、警察官もしくは連合内相当の頭分(かしらぶん)に指揮権を託す。⑤各小集落は規律に耐えうる人で消防隊を組織し、定期的な演習をする。⑥善光寺専属の消防隊をつくる、などをあげている。

 明治二十四年四月の松代町大火では、東条(ひがしじょう)村中条から出火し、当夜の南風にあおられた火勢は、西条村の一部と松代町の荒町・四ツ屋町、御安(ごあん)町・石切町・中町・荒神(こうじん)町・片羽(かたは)・鍛冶(かじ)町・肴(さかな)町の一町二ヵ村に延焼し大きな災害となった。

 県は松代小学校を救護所(きゅうごじょ)にあて、證蓮(しょうれん)寺・祝(ほうり)神社・海津座劇場を救出所にあて罹災(りさい)民の救助にあたった。

 この火災では、旧藩主真田幸民(ゆきもと)から義援金(ぎえんきん)一〇〇〇円が贈(おく)られ、皇室からは侍従(じじゅう)毛利左門(さもん)が派遣され七〇〇円が見舞金として下賜された。地元ではそれらを記念して、恤災恩賜(じゅっさいおんし)記念碑(写真118)を建てた。


写真118 祝神社境内の恤災恩賜記念碑

 この二つの大火のあと、明治二十七年二月内務省公布の「消防組規則」と同年五月の県令公示「消防組規則施行細則」により、初めて公設消防組が表16のように、現長野市域の長野町大字長野ほかそれぞれおもな町村に設置された。また、同年同月県は消火力を高めるため、消防組の設備器具標準を公示した。これにもとづいて消防組は、喞筒(そくとう)(ポンプ一台、当分のうち竜吐水(りゅうとすい)代用も可)の設備が義務づけられた。このころ、今までの手押しポンプからドイツ式蒸気ポンプが出まわり、明治三十三年からは蒸気ポンプの国産も始まり、都市を中心に普及しはじめた。長野市消防組は、同三十九年四月には四組から六組に再編成された。そして同四十四年には、長野市周辺の「消防組応援関係区域」も表17のように整備された。


表16 現長野市域の公設消防組設置(明治27年5月)


表17 消防組の応援関係区域(明治44年10月)

 しかし、明治四十年の寺尾村大室(おおむろ)と大正五年(一九一六)の保科村、同十五年の共和村小松原の大火では、まだ消防組の消火能力は低く、とくに保科村の火災では午後一時ごろの出火であったが、山あいの地形にも関係して火勢は人家だけでなく、山林にもひろがり、清水(せいすい)寺大日堂・三重塔・仏像(当時国宝)なども焼失した。