明治二十七年(一八九四)からの清国を相手にした日清戦争と三十七年からのロシアを相手にした日露戦争は、大国を相手にした戦争で、世界の列強に日本の存在を示す機会となった。この戦勝以前に日本の国際社会での認知を高めたものに、明治十九年(一八八六)の戦場の傷病兵に関する赤十字条約(ジュネーブ条約)への加盟があった。政府は簡明な赤十字条約解釈書をつくり、陸軍大臣名で「軍人軍属に在(あり)テ最要ノモノニ付(つき)別冊熟読恪守(じゅくどくかくしゅ)ス可(べ)シ」と訓令を出している。日清戦争時には解釈書を唱えさせ、敵味方のない傷病兵の救護と住民への接し方を指示し、これ以降は戦功をあげた兵士のほか傷病兵の救護にあたった医員・看護人(婦)などにも賞典をあたえた。
日清戦争が始まると、県内の各町村では兵員確保と兵員家族援護のため、また、輸送用軍馬徴発(ちょうはつ)のため、統一的な施策がなされ、地域住民も自動的にその一員として組みこまれていった。町村議会では兵士優待を決議し、町村ごとに町村長・議員などが中心になって、戸主(こしゅ)を義務会員とする恤兵会(じゅっぺいかい)(長野町)・兵役優待(へいえきゆうたい)会(埴科郡)・尚武会(しょうぶかい)(更級郡)を結成し、応召(おうしょう)兵士やその家族に組織的支援をすすめた。松代兵役優待組合では、従軍者家族一六人に五円ずつ贈与した。長野町恤兵会では応召者に三円、出征兵士家族に年一五円から五〇円(のち一二円から七二円)の補助金(不要家庭には慰問金五円)・小学校授業料(五銭から二五銭)免除・病気の家族の無料治療などを決めている。いずれも地域住民の相互扶助(ふじょ)をすすめるため、会費と義援金(ぎえんきん)を資金とした。長野では各町・工場・組合・講・学校・寺社などでも集めていたので、二重三重に応じていた者もいた。不幸にして戦病死した兵士の家族には、恤兵会は祭祀料(さいしりょう)三〇円をおくり、遺骨分与式(いこつぶんよしき)には代表が遺族とともに参列し、葬儀の通知を出した。会員は遺骨を出迎えて自宅まで送り、葬儀には会葬をした。また恤兵会は兵士の見送りのほか、帰郷時(ききょうじ)には五円から二〇円の慰労金をおくり祝賀会を開いた。戦勝が伝わると家々では国旗を掲げ、長野町は城山(じょうざん)館、松代町は小学校や城址(じょうし)で祝賀会を開き祝電を打っている。二十八年七月の兵士復員のさいは、長野停車場まで出迎えて大通りを城山館まで行進し、式のあと大勧進前では、各町の山車(だし)・屋台(やたい)なども繰りだされ、にぎわった(『信毎』)。
日清戦争時の学校では尚武(しょうぶ)精神を高めるため、宣戦詔勅奉読式(せんせんしょうちょくほうどくしき)・軍資金献納(けんのう)・戦況幻灯会(げんとうかい)のほか出征兵士の送別式に児童が参加し、学習は筆記・暗誦(あんしょう)よりも体育や衛生が強調された。教育は戦勝要因として、戦後も重要性が説かれ、家庭教育のできる女子の育成と、兵士の病死が多かった反省から保健衛生などが重要視された。
日露戦争では、戦費の調達(ちょうたつ)に向け軍事公債の募集がされたが、企業や有力者には、国税が増徴(ぞうちょう)されたため二回目以降の公債目標を達成する余裕(よゆう)はなかった。市町村は課税の抑制(よくせい)で歳入減となり事業を大幅に縮小した。人びとは出征兵士の苦難を思って堪(た)えて勤倹(きんけん)貯蓄につとめ、個人や愛国婦人会・長野婦人会などの会員として恤兵献金(長野市は三回で八千七百余円)や軍資金の献納、梅干(うめぼし)・みそ・防寒衣料品・絵画など慰問品の提出に協力した。農村では、農耕馬・荷車・軍用大麦の徴発もあり、生産活動にも影響をうけた。長野市の兵士の送迎は、各家が国旗を掲げ、停車場で式をおこない、復員のさいは音楽隊や煙火でもりあげ地元で歓迎式を開いた。軍隊の戦果が伝えられると、人びとは国旗を揚げ、ロシアの荒鷲(あらわし)を射止めた飾り物や紙張りのびんと千両箱を載せた(ハルビン占領)山車などをひき、提灯(ちょうちん)行列で祝っている。また、戦利品の展覧会は長野・松代などで開かれ、勝利に酔(よ)う大勢の見物人でにぎわい士気を鼓舞(こぶ)した。戦利品は、願い出により学校・寺社に交付された。
小学校では、日露戦争の顛末(てんまつ)や国民の覚悟、戦時の義勇奉公、実業・教育・文芸などでの一等国の実現などについて訓話している。高等女学校でも、ロシアの侵略を防ぐやむをえない戦争であり、戦勝の要因は将兵の統制・勇敢さと国民の一致支援であると教えている。三十七年(一九〇四)九月日本軍が遼陽(りょうよう)を占領すると、城山小学校では祝勝式をおこない、「赤心(せきしん)愛国」の唱歌・遊戯(ゆうぎ)・体操・講話・万歳などをして祝った。その夜のようすを城山小学校児童は学級日誌に「遼陽占領の公報に接し、号外の鈴の音ひびく市中は、にわかに国旗をたてて軒(のき)提灯を下げ、夜は少年音楽隊が全市をあげて記念公園招魂社(しょうこんしゃ)に練(ね)っていく、前代未聞(ぜんだいみもん)の提灯行列であった。」と記している。
いっぽう、若穂地区を除いた現市域の従軍者数は、日清戦争時の約六倍、犠牲者は約七・三倍にのぼり、ほとんどが戦死であった(表18)。応召軍人家族には労力・補助金などの救助を要する家庭が多く、救助を受けても生活困難な家庭は、戦病死した兵士の家族を中心に県内応召者家庭の七・八パーセントをこえている。
戦争協力が日本中をおおったなかではあったが、東京など大都市では社会主義思想が広まった。活発な戦争批判などが、雑誌や県内出身の民権活動家木下尚江(なおえ)・衆議院議員立川雲平(たちかわうんぺい)らによって長野にも伝わった。彼らは小諸・上田の演説会につづいて、三十七年七月二十六日夜には権堂町千歳座(ちとせざ)の政談(せいだん)演説会に出席し、およそ六〇〇人の聴衆を前に非戦(ひせん)・社会主義・普通選挙について論じた。翌日には、地元青年らが計画した社会主義研究会にも出席している。翌八月には長野市に、丸茂天霊(まるもてんれい)らによる黒潮会(のち信濃社会主義研究会)が結成された。