市町村合併と都市計画

336 ~ 338

長野市は、大正十二年(一九二三)七月一日に近隣の三輪村・芹田(せりた)村・吉田町・古牧(こまき)村の一町三ヵ村が編入合併して市域を広めた。この時期は、国税・県税のほかに郡制による分賦金(ぶんぷきん)の負担が各市町村の財政を苦しめ、また、産業や交通機関の発達から、都市への人口集中が進行していた。

 明治三十八年(一九〇五)五月、県は三輪村と芹田村のうち長野市寄り地域を長野市へ編入合併する案を示した。これにたいし、長野市は賛成、三輪・芹田両村は絶対反対で、この合併案は中止となった。

 大正四年(一九一五)一月、今度は長野市が三輪・芹田両村の合併意見書を県に提出した。理由は「年々の人口増加により、道路、下水道、上水道の布設、市庁舎の移転計画、鉄道停車場の拡張などが両村に関係を生じるため」としている。なお、この時期の市議会の記録では「この合併を天皇即位の御大典(ごたいてん)記念事業として」も企(くわだ)てていた。これにたいし、三輪村の大半は賛成であったが、「村の半分を吉田町に合併し、半分を長野市に合併」の意見もあった。芹田村は「村の一部合併には異論があり、全村合併なら異論がない」ということでまとまらず、両村の編入合併はふたたび中止となった。

 大正八年(一九一九)四月、国は全国的な都市の無秩序(むちつじょ)な発達に計画性をもたせるため「都市計画法」を制定した。これにより長野市も国の調査対象都市となり、大正十年度事業として市区改正を第一にあげるなかで、松橋市長は、「三輪・芹田両村合併の目安をつけたい」とした。同年七月には内務省による都市計画施行の下調査が、長野市および松本市・上田市で始まった。この調査の結果から、内務省は、吉田町・三輪村・芹田村の一町二ヵ村で長野市合併を計画し、十一年七月関係市町村に諮問(しもん)した。これにたいし、長野市は「合併を熱望(ねつぼう)」、芹田村は「合併は無理」、吉田町は「道路、電車、水道等が条件」、三輪村は「吉田町をふくめるなら異論はない」であった。知事はその後も懇談や説得をつづけたが、上水内郡は合併後の郡の勢力減退(げんたい)を心配して賛成はしなかった。

 これまでの動きのなかで、古牧村は合併案に入っていなかったが、十一年六月下旬長野にきていた内務省の山田博愛博士が「古牧村を合併に加えることが都市計画のうえから有利」と発案し、県も「古牧村が自主的発動により希望するなら合併もありうる」とした。これにより以後、合併問題は古牧村まで広げての段階に入った。長野市は交渉(こうしょう)委員をあげて、各町村の希望にそえる条件を提示(ていじ)して話をすすめた。古牧村へは、当事者に交渉を開始し、吉田町へは電車と道路を、三輪村へは道路を、芹田村へは中御所分教場の設備改善と校舎拡張を、というなどの条件を示してあたった。このあとも、各町村では、賛否(さんぴ)両論があったがおおかたは賛成論に向かい、とくに三輪村の青年たちが合併促進の決議をするなどの動きもあって、十一年八月には、ほぼ合併問題は全部解決したかにみえた。

 ところが、内務省は先の山田博士の意見に反して、「古牧村は純農村で尚早(しょうそう)」として反対した。このため、内務省との陳情や折衝(せっしょう)で結論は遅れた。また、吉田町とのあいだでは「条件の電車布設がない」として合併中止問題が再燃したが、地元選出の小坂順造代議士の尽力もあって、十二年六月十六日内務省の認可が出、念願の一町三ヵ村の編入合併は大正十二年七月一日実現した。そして吉田町との協約にかかわる「長野電車創立総会」を城山の蔵春閣(ぞうしゅんかく)で開催し、「資本金二〇〇万円、須坂まで一気に布設」を決議した。また、元町村民の利便のため、合併と同時に元町村役場を市役所出張所とし、納税や簡易な願い届けなどの受け付け処理をすることとした。この時期、現長野市域の更級・埴科・上高井の三郡では、篠ノ井町、栄村(御幣川(おんべがわ))、川柳(せんりゅう)村、中津村でも合併問題が起こったが、昭和三年(一九二八)四月一日、篠ノ井町への栄村合併が実現したにとどまった。


表19 合併当時の市町村別戸口(大正12年)

 長野市が「都市計画法」による指定をめざして着手したのは、この近隣一町三ヵ村の編入合併からであったが、具体的な実施計画の認可はかなり遅れた。昭和二年(一九二七)の春、長野市は先の内務省山田博士を嘱託(しょくたく)として招聘(しょうへい)し、実施計画の作成にあたり、これによってにわかに状況が変わった。山田は、市の都市計画をこれまでの大都市計画から小都市計画に転換し、基本方針はこれまでの仏都中心から遊覧(ゆうらん)都市中心へと位置づけ、将来の発展も考慮して商工業地域を設定する案を策定(さくてい)した。昭和三年六月これを県経由で内務省へ上げると、数度の修正をへて、五年六月十日最終認可となり、具体的事業が実施に移されることになった。この計画により実施された主なものは、①合併新市域の道路網や公園整備、②長野飛行場の用地買収、③土地区画整理、④市営水泳場、⑤市営野球場、⑥武徳殿(ぶとくでん)の改修移転、⑦弓道場の新築、⑧長野警察署の新築などであった。