普通選挙と生活の変化

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米騒動(こめそうどう)で寺内正毅(まさたけ)内閣が倒れたあとをうけて、大正七年(一九一八)九月、政友会総裁の原敬(たかし)のもとで内閣が成立すると、普通選挙期成同盟会の活動が再開され、友愛会などの取り組みも活発化して、普通選挙制度の実現を要望する運動は、全国的に広がっていった。八年八月には、長野市の蔵春閣において、八百人余の聴衆を集めて普通選挙演説会が開かれた。演説会では衆議院議員の今井嘉幸(よしゆき)(大阪出身)が普通選挙の必要性を説いた。

 大正八年九月、政友会の南北信支部は合併して県支部を設立した。いっぽう憲政会は、同月南北信の支部で大会を開催し、普通選挙の実現と民衆の権限拡大などを決議した。九年五月の総選挙における県内の政党別の当選者は、政友会六人、憲政会五人、国民党一人、無所属一人であった。選挙結果について『信毎』は、憲政会の躍進と政友会の伸び悩みは、県民の普選実現にたいする期待のあらわれである、と報じている。

 大正十三年(一九二四)一月、貴族院のあと押しで清浦奎吾(きようらけいご)内閣が成立すると、各政党は特権内閣であるとして、倒閣することを決めた。これをうけて第二次憲政擁護(けんせいようご)運動が全国へ拡大した。長野市の憲政会派は二月に蔵春閣で、長野同志会を創立した。総会では、憲政を擁護すること、特権内閣を倒すこと、普通選挙の即時実現をはかることなどを決議している。そのほか長野市で長野立憲青年党、上水内郡で上水内農政青年団が結成され、政治への青年層の関心が高まっていった。五月の総選挙では、憲政会が七人の当選者を出したのにたいして、政友会は四人とふるわず、県下においては憲政会が優勢であった。全国では憲政会・政友会・革新倶楽部(くらぶ)の護憲三派が勝利を収め、六月に清浦内閣が総辞職し、憲政会総裁の加藤高明(たかあき)を首相とする内閣が発足した。


写真121 蔵春閣(左)と城山館(右)

 普通選挙法案は、大正十四年三月に衆議院・貴族院でそれぞれ修正可決され、五月五日に公布の運びとなった。婦人の参政権は実現せず、男子でも生活扶助を受ける者などに選挙権が認められなかったが、二五歳以上の男子の選挙権が実現し、国民の政治的権利を大きくすすめるものであった。

 これより前の大正十年四月、市制・町村制が改正となり、選挙権に関する国税の規定が廃止され、市町村税を納入する者に公民権が認められた。この改正により有権者数は市部で約三倍、郡部で約五〇パーセントの増加となった。また、市町村会議員選挙は納税額によって有権者を等級に分けて実施していたが、その等級は、市が三級から二級となり、町村は等級が廃止された。改正後はじめての長野市会議員選挙は十三年六月に実施された。定員は三六人で二級選挙人の六七九六人、一級選挙人の一九二四人がおのおの定員の半数を選挙した。二級選挙人の投票日には、それまでの投票のようすと違って、警察官の制止にもかかわらず投票者が殺到(さっとう)したり、仕事着のままで投票する姿が見られたりした。埴科郡寺尾村では十四年四月、有権者の等級を廃止した最初の村会議員選挙をおこなった。村では、権利を得たことで人心の融和が認められ、多くの村民がこの改正を歓迎している、と郡長に報告している。

 昭和二年(一九二七)に入ると、普通選挙にそなえて政党・政治結社などの動きが活発になってきた。同年二月には憲政会と政友本党が立憲民政党を結成し、八月には北信支部を設置した。無産政党も三月に社会民衆党が北信支部を立ちあげ、六月には労働農民党北信支部が創立大会を開いた。同年三月には政治結社・加盟人員数は一二四団体・一〇万三一七四人で、加盟者は前年に比べると、約一万四千人の増加であった。同年九月には普通選挙ではじめての県会議員選挙が実施された。長野市の有権者数は約一万二千人で、いままでの二・六倍であった。この選挙から公立学校が選挙演説の会場として使用できるようになったり、不在者投票や点字投票が取りいれられたりした。

 昭和三年二月に、衆議院議員選挙が中選挙区制で実施された。第一区には長野市・上水内郡・更級郡・上高井郡が、第二区には埴科郡が属し、定員は各区三人であった。政党別当選者は、一区が民政党二・政友会一、二区が民政党一・政友会一・中立一であった。普選下の長野市会議員選挙は六月で、定員三六人にたいして五五人が立候補する乱立選挙となった。有権者数が約三三パーセント増加した町村会議員選挙は、三月から四月にかけておこなわれ、小作人組合からの当選者は、西寺尾村で二人、東福寺村で三人などと従来より多くの代表者を選出している。県全体でも、労働者・小作人の議員が増加し、公立学校でおこなわれた演説会には多くの市町村民が参加し、政治意識の成長もはかられていった。

 大正期は都市や農村において、住民の生活にも多くの変化がみられた。鉄道の利用客は年々増加し、大正末ごろの長野駅の年間乗降客は一〇〇万人をこえ、長野電鉄の権堂・信濃吉田間の年間利用者は一三〇万人余と、住民の足として重要な役割を果たすようになっていた。長野市の電話加入者は、明治末年から昭和初年にかけて約五・四倍にふえていたが、官公署・学校・商工業者が中心であった。住人の日常生活に密接にかかわっていたのは、電灯の普及である。やはり明治末年から昭和初年にかけて約一〇倍の伸びを示しており、農村部でもしだいに普及していき、夜業時間が延長されていった。長野市では大正四年十一月に、戸隠を水源とする上水道敷設(ふせつ)が完成し、松代町でも十四年五月に、清野村地籍の千曲川伏流水(ふくりゅうすい)を水源とする上水道が完成し、日常生活や衛生意識の向上、防火施設の充実などに大きな役割を果たしていった。