各地区の青年会は、明治時代末ころから大正時代中ごろにかけて、連合体として町村青年会・郡市連合青年会に組織を拡大してきた。現長野市域にかかわる郡市連合青年会の成立状況は、表20のようである。大正デモクラシーの風潮のなかで、連合青年会はスポーツ大会、擬(ぎ)国会・擬町村会の開催、貯蓄奨励・就学奨励、産業品評会や生産物の共同販売、道路整備などの活動をした。連合組織が周辺郡より遅れていた長野市の青年会について、大正八年(一九一九)一月十一日の『信毎』は、「時には奔馬(ほんば)の野を行く情熱の青年の結集がなくては、諸般の改革は望めない」と統一組織の必要を説いて奮起(ふんき)をうながした。そこで、未組織の地区にも青年会を設けて、三八の地区青年会が、大正八年十一月十六日に長野市連合青年会(以下、市連青)として発会した。市連青の活動で特記されるものに、生活改善会と善光寺前立本尊(まえだちほんぞん)紛争の調停がある。
生活改善会は、青年団の附属機関として設けたもので、婦人会の協力も得て、生活改善の要点として時間励行・乾杯(かんぱい)廃止・廻礼(かいれい)廃止・国旗掲揚など六項目をあげた。『信毎』は社説で「日本人は時間を塵芥(じんかい)の如く粗末にし、他人の時間まで冒涜(ぼうとく)している。因習(いんしゅう)に囚(とら)われない青年に恰好(かっこう)な事業である」と励ましている。
善光寺では、前立本尊の所有権と保管について、大勧進と大本願とのあいだに争いがつづいていた。長野地方裁判所が取りあつかって調停につとめていたが、対立はなかなかとけなかった。市連青は、善光寺の問題は長野市の問題でもあるとして、大正十一年に委員をあげて大勧進・大本願両寺と院坊(いんぼう)のあいだを奔走(ほんそう)し、協力者の鷲沢平六とともに仲裁に力を尽くした。如来(にょらい)三尊像は所有名義を善光寺に移して登記すること、大勧進内仏殿の宝座を改造し善光寺本堂への門を新設すること、三尊の封秘(ふうひ)・開扉(かいびょう)は大本願と共同でおこなうこと、などの「和解条項」八ヵ条を示してようやく両者が歩みよった。市連青の努力によって、長年月の懸案(けんあん)の係争(けいそう)問題が円満な解決に向かった。
大正時代の長野市内の婦人団体は、長野婦人会・愛国婦人会長野支部・長野丙申(へいしん)婦人会・明照婦人会・日本赤十字社篤志(とくし)看護婦人会長野支会・キリスト教婦人矯風(きょうふう)会長野支部・信州婦人社母の会などがあった。
長野婦人会は、種々の事情によって大正五年から休会状態になっていたが、大正七年(一九一八)一月二十日に倉島あきを会長として再発足した。月刊機関紙『信州婦人』をもって、自主運営と自由主義的活動をつづけた。長野婦人会は、大正十四年会員数三六二人に達していた。長野婦人会で特記すべきことは、信州婦人社と合同して、信州婦人夏期大学を創設したことである。
夏期大学は大正十一年に、小県郡別所温泉常楽寺で半田孝海夫妻の協力によって、約百人ほどの出席を得て第一回を開講した。このあと夏期大学はおよそ一〇年間にわたり、毎年八月に四日間ほど開かれた。有馬頼寧(よりやす)・市川房枝・山高しげり・帆足(ほあし)理一郎と妻みゆき・山田わか・富士川遊・高島平三郎・塚本はま子などの進歩的な講師を招いて、講演を聞き婦人解放や社会問題に関する学習会をもった。このほか、廃娼(はいしょう)運動・社会奉仕バザー・修養会・生活改善・演劇・料理手芸など多彩な活動をした。
愛国婦人会長野支部は、軍人遺族救護・傷病兵慰問・災害義援(ぎえん)をおこない、大正九年のシベリア出兵にさいしては、一個一円相当の慰問袋を三千個つくって贈り、留守(るす)家族を慰問した。また講演会・音楽会・慈善市(じぜんいち)を催し、看護法の講習会も開いた。大正九年からは端午の節供(たんごのせっく)を児童愛護日と決めて児童愛護週間を設け、十年からは健康幼児審査会を開き健康幼児表彰をおこなった。
大正十五年に市内各地婦人会の連合への動きが出て、十一月十日城山館(じょうざんかん)で長野市連合婦人会創立総会を開いた。翌昭和二年(一九二七)四月二十三日、城山蔵春閣(ぞうしゅんかく)に約八百人を集めて長野市連合婦人会総会を開き、倉島あき・小笠原嘉子(よしこ)らが意見発表をおこない、そのあと正木不如丘(ふじょきゅう)の「愛児のために」の講演があった。