長野の米騒動と廃娼・部落解放の運動

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大正四年(一九一五)六月に玄米一石(いっこく)あたり一一円二〇銭だった米価が、七年には二九円三〇銭、八年には四八円七〇銭にまではねあがった。これは、産業発展の人口増加による米の消費増大と米の生産が追いつかないことに加え、七年のシベリア出兵による米価値上がりを見こんだ米商人たちが、売り惜しみやしまい込みをしたからである。大正七年八月の日雇いの日給は、県内平均男九一銭・女六八銭で、仕事によっては四〇銭から五〇銭ほどであった。そのため、貧困家庭では三度の食事にもこと欠く状態で、弁当のもてない子どもたちの多くは学校を欠席した。米を購入して生活する市民にとって、米価の急激な値上がりは、生活に大きな痛手となった。

 大正七年七月、富山県の漁村で始まった米の安売り要求のはげしい行動は、たちまち全国に広がって各地で米騒動(こめそうどう)が起きた。松代町長矢澤頼道(よりみち)は日記に「八月十二日、米価益々暴騰(ますますぼうとう)シ、本日松代相場(そうば)一石(こく)四七円余リ。告グ各地米騒動暴起不穏(ぼうきふおん)ナリ」「八月十三日、各地ノ米騒動益々猛烈ナリ」と記している。

 長野市では米騒動が、八月十七日夜から十八日早朝にかけて起こった。十六日夜、市内各所に「米価引下市民大会、十七日午後六時ヨリ長野市記念公園ニテ」と書かれた紙がはられた。当夜市民がぞくぞくと城山に押しかけ、一〇時には一〇〇〇人をこえたという。「長野の米価は全国で一番高い。市民大会の決議を新聞に発表して、米穀商を反省させよう」という演説につづいて、「米屋へ押しかけよう」ということになって、数百人の群衆が権堂町・後町・石堂町などの米屋の戸をたたき、米一升二五銭の安売りを要求した。そして、店の表戸に「手持ち分、白米一円につき四升」の張り紙をはらせた。この動きを察知した米商人のなかには、暴動を恐れて先手をうち、「明日より一升二五銭」という張り紙を出す者もあった(『信毎』)。清野村の近藤静次郎は日記に「八月十八日、本年非常なる米相場にて、一升五〇銭にもなりしを以て、全国至る所暴動起こり、同日長野市に於いても非常な騒ぎを致せり」と記している。


写真123 米騒動の『信毎』記事(大正7年8月)

 政府は、天皇からの下賜金(かしきん)を「聖恩(せいおん)」として、米の安売りにあてることを一般に知らせ、騒動の沈静化(ちんせいか)をはかった。長野市は、下賜金のほか市費・篤志(とくし)寄附金によって、八月十八日から九月三十日まで、内地米の安売りをおこなった。松代町では矢澤町長が、十八日に町会議員と区長を集めて協議し、生活困窮者救済のための義援金(ぎえんきん)募集をはじめ、十九日から一石三九円の川中島米を二五円で売るようにした。現長野市域の各町村でも、資産家から義援金を集めて、米・大麦や味噌(みそ)・醤油(しょうゆ)などの安売りを実施した。

 このころ人権問題としてとりあげられたのは、廃娼(はいしょう)問題と部落差別問題であった。当時、県内の遊郭(ゆうかく)一一ヵ所のうち最大の遊郭は長野市の鶴賀遊郭で、明治十一年(一八七八)に設置され鶴賀新地とよばれた。県統計書によると、大正五年(一九一六)県内全部で貸座敷(かしざしき)一四五軒・娼妓(しょうぎ)九四〇人のうち、鶴賀遊郭は貸座敷三二軒・娼妓二八一人を占めている。貧しい家庭の娘たちは、家計を助けるため貸座敷業者から借金をして、「娼妓稼(かせぎ)願」を郡役所に出し、座敷を借りる形をとって身を売った。しかし、いくら稼いでも税金・食費・病気の治療費などで前借金は減らないしくみになっていて、遊郭から抜けだすことはできなかった。


写真124 鶴賀遊郭のすがたをとどめる建物(平成6年)

 明治二十年代から公娼廃止(こうしょうはいし)論や廃娼運動がおこなわれたことがあったが、日清戦争・日露戦争や戦後の戦勝祝賀気分のなかで、立ち消えとなっていた。その後、県内で廃娼運動が燃えあがったのは大正十三年(一九二四)ごろからである。各地の青年会や婦人会が、この問題をとりあげて討論するようになり、キリスト教嬌風会(きょうふうかい)が廓清会(かくせいかい)を組織した。大正十五年十月には長野・松本・上田の婦人会が、街頭で二万人以上の廃娼賛成の署名を集めて県会へ送り、嬌風会長野支部と長野婦人会は、城山蔵春閣で公娼廃止講演会を開いた。昭和二年(一九二七)十月日本メソジスト長野教会で、長野県廃娼期成同盟会が発足し、蔵春閣で廃娼問題大講演会を開いた。さらに三万二〇〇〇人余の廃娼賛成の署名を集めて県会へ提出したが、廃娼は死活問題だという貸座敷業者のはげしい抵抗のため廃娼決議は得られなかった。廃娼期成同盟会は、昭和四年には六万六六〇〇人余の署名を県会へ提出した。翌五年の県会は、公娼廃止に関する意見書(一〇年間の内にというただし書き付き)を起立多数で可決した。七年間にわたる血のにじむような努力が認められた廃娼期成同盟会の人びとの喜びは大きく、人権擁護運動の大きな成果となった。しかし、公娼廃止は、昭和六年の満州事変に始まる十五年戦争の中で、うやむやにされた。

 米騒動や国際連盟での人権問題のとりあげや大正デモクラシーの人道主義の影響もあって、部落解放への動きが全国的に始まった。大正九年(一九二〇)十月、上田市上田中学校講堂で、部落解放をめざす信濃同仁会(どうじんかい)の発会式がおこなわれた。発会式には東北信各郡市から、被差別部落出身者のほかに、郡長・学校長・警察署長・軍人分会長・新聞記者などが多数集まった。機関紙『同仁』を発行して、啓発活動・部落改善・差別撤廃(てっぱい)の活動を始めた。現長野市域にもいくつかの支部ができて、活動をつづけた。

 この四年後の大正十三年四月、小諸町高砂座(たかさござ)において、長野県水平社(すいへいしゃ)創立大会が開かれた。『信毎』は「人間礼賛高唱 長野県水平社創立 解放の叫びや協議で盛会」という見出しをつけて、大会のようすを報じている。県水平社は「信濃同仁会は自力で立たず、県当局の力を借りている」と信濃同仁会の半官半民の融和(ゆうわ)団体の性格を批判し、解散を要求した。激論を交わしたが、信濃同仁会は解散せず、以後の十数年間両組織は併存して、互いに影響しあいながら部落解放運動をつづけた。県水平社は、官憲(かんけん)の差別にも団結して敢然として立ち向かった。


写真125 長野県水平社創立大会 (中山英一蔵)

 大正時代中ごろからは、農村部で小作料の減免(げんめん)を求める小作争議、都市部では労働条件をめぐっての労働争議が増えてきた。