欧米に起こった新教育運動のなかで、長野県の大正自由教育は、哲学思想にめざめた教師たちによって、近代的人間の形成をめざして展開された。明治期にほぼ達成された教育体制の整備は、形式的・画一的の批判をうけた。教育の質を問う自我の自覚と自己実現の教育への革新が、大正初年の県内小学校連合教科研究会における修身・綴方(つづりかた)・図画工作の研究で、動きはじめた。それは、児童中心の自主性・個性伸長を重くみる自由教育であった。
私立の新学校の成城(せいじょう)小学校(東京)が澤柳(さわやなぎ)政太郎(松本出身)によって開校し、同時に大正六年(一九一七)四月、長野県師範学校附属小学校で研究学級が設けられた。最初の田中学級、翌年の淀川(よどがわ)学級が、長野市内から二〇人の児童を募集して、教科書や時間割りを用いない児童の生活経験を単元とする学習がおこなわれた。児童の生活は遊びで、郊外を教場とし、学校の教室は雨天の学習か休息の場に変わった。児童は毎日泥まみれになって帰宅し、児童の演じる「青い鳥」の劇に父母が招待された。この新教育の実験は、参観謝絶(しゃぜつ)でおこなわれたが、特別許された信濃毎日新聞主筆の尾崎隅川(わいせん)は、写真入りで九回連載し、また新教育推進者の小原国芳(おはらくによし)は「熱烈大胆な欲求から生まれた」「世界にめったに見られない貴いもの」として賛歎(さんたん)した。附属小学校では、教科書中心の長期にわたる教授研究の「行きづまり」から、内発的に研究学級が生まれたのである。研究学級は二学級あて三期にわたって継続され、累計六学級二〇年間試行され、昭和十二年に終わった。それから一〇年後、第二次大戦後の新教育で、単元法による経験学習が復活して主流となっている。
信州教育の伝統とする教育の主体性を主張する東西南北会は、明治末年に後町小学校の手塚縫蔵(ぬいぞう)と城山小学校の斉藤節(みさお)が主唱して生まれた。人格者に接して人格を高める目的で集まり、長野市では教育会と東西南北会共催の三宅雪嶺(せつれい)講演会(明治四十五年六月)と犬飼毅(いぬかいつよし)講演会(大正二年九月)を城山の蔵春閣で開いている。大正四年二月には、善光寺裏の燕(つばめ)の湯へ集まった県内の会員が師範教育の現状を憂(うれ)え、翌日代表一二人が星菊太校長に面接して辞職を迫る事件が起きた。未来の教師をつくる師範学校が、新しい文芸運動や哲学に親しむ生徒を蛇蝎(だかつ)視して、反信州的な去勢(きょせい)教育をおこなっていることへの抗議であった。県は、東西南北会と信州白樺(しらかば)派が自由教育の元凶であるとみて、辞職勧告をした一二人を一ヵ年の休職処分とし、その後も処分問題があいついで起きている。
信州白樺派のはじまりは、川中島の中津小学校であった。明治四十四年九月に同校の代用教員(無資格)となった赤羽王郎(おうろう)(本名一雄)は、同僚の笠井三郎(一時松井姓)とともに文芸雑誌『白樺』の愛読者であった。『白樺』は武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)らが、自然主義を排し、人道主義・理想主義を標榜(ひょうぼう)して、四十三年四月に発行した文芸雑誌である。『白樺』に共鳴する教師のグループは、信州白樺派といわれ、白樺の文芸運動は長野県で教育運動に転化して、その理想を実現しようとした。
信州白樺派の教師は児童を熱愛し、古い殼(から)を破って新鮮な教育をおこなった。信州白樺派の先達となった赤羽王郎(上伊那郡出身)は、中津小学校でクラスの生徒の差別を廃し、グループ学習をとりいれて児童の自主性を重んじた。赤羽は諏訪郡玉川小学校へ転任して、諏訪教育会の泰西(たいせい)美術展覧会を提唱して開催を実現し、来会した武者小路と会って、以後、県内各地で白樺の文芸運動が始まるのである。同志の笠井三郎は、出生地の稲荷山(いなりやま)小学校で首席訓導となって全校児童に敬慕され、後町小学校へ転任して辞書を使う自学主義の教育をおこない、上伊那郡南箕輪(みなみみのわ)小学校では、児童の魂にくいいる薫陶(くんとう)を残したという。いっぽう埴科郡には松代小学校に中村亮平(りょうへい)(五加出身)がいて、武者小路が開いた人類愛の理想郷をめざす「新しき村」に共鳴して、夫妻で入村している。
長野市でおこなわれた文芸運動では、笠井三郎が周旋して大正六年五月十八日、柳宗悦(むねよし)の「神に関する種々なる理解道」の講演会が城山館で開催され、七年六月八、九日には、草土(そうど)社美術展と岸田劉生(りゅうせい)の「自然の美と芸術の美」の講演会を長野商業学校で開いた。稲荷山でもロダンの版画展がおこなわれた。
鍋屋田小学校の北村英一郎らが主催した「草の葉会」が、白樺同人の有島武郎(たけお)を招いて、ホイットマンの詩集『Leaves of Grass(草の葉)』をテキストとする講習会を野尻湖で開いている。信州白樺派の青年教師たちが情熱を傾けておこなった自由教育は、県内に大正新教育の新風をまきおこした。自主教材の使用がさかんとなり、大正十三年九月には松本女子師範附属小学校の川井訓導修身教科書事件が起きている。常軌を逸(いっ)した行動で村民の排斥(はいせき)をうけた戸倉事件が八年県会の問題となり、南安曇郡倭(やまと)、上伊那郡南箕輪・中沢の各小学校の事件があって、白樺運動は以後退潮に向かった。
おとなの文章を模倣(もほう)する範文(はんぶん)主義の綴方(つづりかた)をやめ、児童の思想・感情を児童のことばで個性的に表現させようとする作文教育や、新定画帖(がちょう)を手本として臨画(りんが)する図画(ずが)を脱して、児童特有の感性と技法による個性的な表現の児童画をめざす美術教育は、すでに連合教科研究会の綴方、図画工作研究会で発足していた。