明治三十年(一八九七)ころ市内へ導入された野球は、庭球と並ぶ近代スポーツの花形として中等学校から小学校まで急速に広がり、各種の大会が開かれるようになった。大正期になると、さらに一般社会人のあいだにも普及し、大正四年(一九一五)ころには実業団チームもでき、九年十月には信濃毎日新聞社主催の全信州青年野球大会、十五年には全国都市対抗野球大会が始まった。大正期はスポーツ大衆化の時代で、球技に限らず、スキー・スケート・登山・陸上競技・水泳などが、学生ばかりでなく一般市民のあいだにも広く普及し、さかんにおこなわれるようになった時期であった。
大正十五年七月、城山公園の北がわに市内で初めて専用の野球場が完成した。城山丘陵の西斜面を利用したもので、総面積四八四五坪(つぼ)、観覧席もそなえた本格的な野球場であった。建設の中心になったのは長野市体育協会であった。協会は大正十四年二月に設立され、一口五〇円、一〇〇〇株の資金を公募して十月に着工し、粘土の土質を改良するために予定が少し遅れて完成したのであった。
明治三十一・三十二年と長野県師範学校・長野中学校にあいついで野球部が創設されて定期試合がおこなわれ、三十五年には県下中等学校連合運動会が始まり、庭球・撃剣(げきけん)とともに野球大会が開かれて技(わざ)を競(きそ)った。大会は回を追うごとにさかんになったが、いっぽう練習や応援が過熱化して、しばしば弊害論(へいがいろん)が出され、ついに大正三年の大会を最後として廃止された。しかし、翌四年八月、大阪朝日新聞社主催による全国中等学校野球大会が始まり、以後その出場権をめざして競いあい、中等学校の野球熱はふたたび高まった。
大正時代前半は長野師範学校の野球の全盛期で、第一回大会は招待されながら都合で参加できなかったが、第二回大会からは連続出場し、大正八年には大阪の新聞に、「常勝軍長師(ちょうし)来たる」と書かれたほどであった。同年は決勝へ進出し、惜しくも神戸一中に敗れたが、強豪として全国にその名を知られた。大正十年には長野商業学校にも野球部ができて急速に力をつけ、十三年には市内三校リーグ戦に優勝し、十四年には全国大会への春夏連続出場をはたした。
市営野球場はこうした野球の普及と人気の高まりのもとに建設されたのであった。それまでの城山運動場は、各種の行事に併用されるうえに、面積もせまくグラウンドが傾斜していた。大正十年、市内の有志が市の補助を得て約四百坪を購入し、野球に適するように拡張し、東がわの土を削って整地するなど熱心な活動をつづけていた。また、大正十四年には松本(本郷村)に、野球場・陸上競技場・庭球場をあわせた県営運動場が建設中であったので、それに劣(おと)らないものを早くつくれという声も強まっていた。こうして完成した野球場は、昭和四年(一九二九)の御大典(ごたいてん)記念に市へ譲渡されて「市営球場」となり、七年六月にはメインスタンドを増設して約八千人収容の観客席が整備された。県内の中等学校野球はこのころから長野商業と松本商業の二強時代がつづき、市営球場でも熱戦がくりひろげられた。長野商業は昭和十四年には全国大会の準決勝進出を果たした。昭和六年三月に長野放送局が開局し実況放送を中継していたので、甲子園での地元校の試合にはラジオの前に黒山の人だかりができた。
長野市営プールは、昭和五年御大典記念事業として、中御所岡田の裾花(すそばな)川左岸に建設された。用地は二つの堤防に挟(はさ)まれた河川敷(かせんしき)で土地の買収にはそれほど問題はなかったが、用水権をもつ農家との交渉が難航し、関係者は了解を得るために奔走(ほんそう)しなければならなかった。完成した長さ五〇メートル、幅一五メートルのプールには高さ五メートルと一〇メートルの飛び込み台があり、ほかに練習池や幼児用の徒渉(としょう)池もつくられ、観覧席もそろった県内初の公認プールであった。最初は男女時間を分けて交代で利用したが、九年には女子用プールも付設された。
それまで、市内には正式な水泳場はなく、小学生は裾花川や池などで水浴びをする程度だったが、例年のように水死事故が起きていた。大正四年の小学生の事故を機に、市教育会では同七年裾花川に水泳場を設置し、職員が交代で監視(かんし)指導することにしていた。
いっぽう、中等学枚では長野商業学校水泳部が大正初年ころから毎年野尻湖で二週間くらいの合宿水泳講習会を開き、長野中学にも水泳部が設立されて力を競(きそ)っていた。大正十三年八月には信濃毎日新聞社主催の県下中等学校水泳大会が諏訪湖で開かれ長野商業学校と長野中学校が大活躍して、プールの建設を望む声は高まっていた。須坂町では大正十四年に町営プールが建設されて、県大会では須坂中学校が独走をつづけていた。それに対抗するためにも、長野市営プールは初めから公認プールをめざして建設された。信越大会は初め野尻湖でおこなわれたが、完成後は長野市営プールでおこなわれるようになり、市内小学校水泳大会も開かれるようになった。昭和三年七月のアムステルダムオリンピックでは、鶴田義行が二百メートル平泳ぎで、日本初の金メダルを獲得し、水泳日本への期待が高まっていた時期でもあった。