長野電鉄と川中島自動車の運行

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大正十五年(一九二六)河東(かとう)鉄道株式会社は長野電気鉄道株式会社を合併して、社名を「長野電鉄株式会社」と改めた。両社の社長は神津藤平(こうづとうへい)であり、重役にも兼務の人がおり、社屋も同じ場所にあったので合併の障害は少なかった。

 河東鉄道は、千曲川右岸のいわゆる河東地域の人びとの長年の願いと努力の末、大正十一年に屋代・須坂間が開通した鉄道であり、長野電気鉄道は、大正十二年の市町村合併問題のなかで、吉田町が長野市にたいし、合併条件として市街電車敷設(ふせつ)を要求したことに始まり、同十五年に権堂・須坂間が開通した鉄道である。

 明治二十六年(一八九三)四月に碓氷(うすい)峠のアプト式線路が完成して、長野・東京間は全通した。河東地域の人びとは、鉄道線からはずれてしまい、生活や地域の発展のうえで大きな不安と焦(あせ)りを感じていた。表21のように、大正六年まで何度か鉄道敷設計画をたてたが、さまざまの理由で実現できなかった。大正八年、経済活況を背景に信越河東鉄道期成同盟会を発足させ、積極的な鉄道敷設運動を始めた。同年、佐久鉄道株式会社が屋代・須坂間鉄道敷設申請をしたので両者は急接近し、合同して会社名称・資本金・役員数・停車場敷地寄附などを決めた。一気に鉄道敷設の機運が熟し、大正十年五月からの屋代・須坂間工事は、トンネルや架橋(かきょう)、泥湿地(でいしっち)の埋め立てなど多くの難所を克服して、ほぼ一年間で完成した。


表21 長野電鉄(株)開業までの鉄道敷設の歩み

 大正十一年六月十日、屋代駅を出発した列車は、各駅で大歓迎をうけつつ須坂駅に着いた。駅で開通祝賀式をおこない、須坂町あげての祝賀行事は夜までつづいた。松代町では全戸に軒提灯(のきじょうちん)をともし、駅前の大アーチに投光器を放ち、花火を打ちあげて祝った。さらに、提灯行列が町中一巡して開通祝いを盛りあげた。

 長野電気鉄道は、大正十三年十一月に着工し、線路の敷設・駅舎の建築・電線の架設などを順調にすすめ、着工一年五ヵ月で完成させた。最大の難関であった川幅約八六〇メートルの村山橋は、道路と鉄道線路の併用という計画で、予算は県六〇パーセント、会社四〇パーセントの負担で十五年四月に竣工した。路線が鍋屋田(なべやた)小学校敷地にかかることで紛糾して権堂止まりとなったが、昭和三年(一九二八)六月長野駅まで開通した。


図41 河東鉄道線路案内図

 鉄道開通式は大正十五年六月二十八日、権堂駅構内で多数の人が集まって盛大におこなわれた。芸妓(げいぎ)の手踊りや太神楽(だいかぐら)を演じ、花火を打ちあげて全市をあげて開通を祝った。電車は一日三〇往復、権堂・須坂を三〇分で走った。権堂駅を中心にした市の東部の発展が急速にすすみ、新築家屋が増えた。

 長野市および周辺の自動車運行の歩みは表22のようで、大正五年(一九一六)以降各地に小さな自動車会社ができて、乗合(のりあい)自動車を走らせるようになった。大正時代の乗合自動車は、六人乗りから一〇人乗り程度が普通だったので、天気が悪く泥道になると乗る人が増えて、発車時間の前に満員となって、乗れない人が出たり、先着争いが起きることもあった。まだ、乗合馬車や人力車(じんりきしゃ)も使われていたが、乗合自動車路線が増えるとしだいに減っていった。


表22 川中島自動車(株)開業ころまでの自動車運行の歩み

 川中島自動車(株)は、大正十五年に六人乗り一六台、一〇人乗り八台の自動車を用意して乗合自動車運行を始め、昭和三年までに一〇路線の運行をおこなうようになった。昭和九年には裾花自動車・高府自動車を、十一年には野尻自動車を、十五年には北信自動車・宇都宮乗用自動車商会・佐藤自動車などを統合・合併して、北信一帯のバス路線の大部分を占めるようになった。


図42 昭和10年(1935)ころの川中島自動車のバス路線 (矢沢彬蔵)