南石堂町から善光寺仁王門下までの街路は、ほぼ直線の広い道路になっている。これは大正十三年(一九二四)に、中央道路工事で拡幅(かくふく)された街路である。中央道路とはこの道路工事のときにつけられた名称で、それまではたんに本通りとか町名の通りでよばれていて、のちに中央通りといわれるようになった。
中央通り沿いは善光寺の門前町として、大門町・後町・問御所町・新田町・石堂町・末広町というように、鉄道開通とも結びついて徐々に町が発展してきた。そのため、大門町では五間半(約一〇メートル)あるものの、後町ではわずか二間半(約四・五メートル)という狭(せま)い場所もあり、道路の数ヵ所で折れまがり、でこぼこも多かった。大正時代に入って自動車の交通が増えてくると交通事故が起き、祭りなどで人が集まると身動きもできないようなことがしばしばあった。
大正八年沿道の有力者が会合を開いて「道路を拡張しなければ、商家だけでなく長野市の発展は望めない」として、牧野元市長に道路改修の促進を陳情した。市は、大正十年に「中央道路八〇三間(けん)(約一四五〇メートル)は八間幅(約一四・五メートル)とする」案を作成して、計画書を県に提出して、半額補助の申請をおこなった。このとき市長は三田幸司(みたこうじ)市長にかわっていた。計画書をみた県当局から「市の中央道路は将来、電車を敷設する必要が出てくるであろうから、このさい八間計画を一〇間(約一八メートル)計画に改正してはどうか」といわれた。長野市は、市会において「将来の電車敷設を考慮して八間幅を一〇間幅に拡張する、予算は一四〇万円、改修年限は十年度から三年間の予定」を決定した。県の補助については、なんとか県議会の理解を得て、十二月県会を通過した。傍聴席にいた多数の市民は議決の瞬間、拍手をして決定を喜んだが、なかには計画に半信半疑で「一〇間幅の広い道なんかできっこない」という者もいた。市は、ただちに中央道路改修部を置き、中央道路改修委員会(議員五人・市民五人)を組織し、技師に各地の土木事業などで力量を示した吉田光を招いた。
大正十一年四月、長野市長は丸山辨三郎(べんざぶろう)になった。十二年五月七日の競争入札会で東京府の嶋崎福松が落札した。五月十七日に起工式を石堂町の起点でおこない、潰(つぶ)れ地・家屋切(かおくき)りとりや移転の難問題にとりかかった。土地は石堂町起点から大門町終点まですべて同一価格として寄附する形をとり、家屋切りとりのみに差をつけて移転料を支出する方針をとった。中央道路沿いの家屋は、比較的奥行きの深い敷地をもつ家が多かったのが幸いして、新築・移転(引き家(や))の場合は奥へ下げやすかった。なかには大改修によって宅地を失って狭くなったので、沿道には店舗(てんぽ)だけとし、生活のために郊外に別の住宅を構(かま)える者も出てきた。商家の人びとは町内で集まり、強制はできないもののできるだけ道幅一〇間に相応(そうおう)した高さの家を建築すること、火災予防のため六〇センチメートルの空間をおくこと、建築は塗(ぬ)り屋(大壁造り)または鉄筋コンクリートにするなどを申しあわせた。こうしたことによって、土地・家賃の価格が上昇し、小さな商店は中央道路筋から離れていった。
工事用セメントは改修部から嶋崎組に交付し、栗石(くりいし)などは犀川の丹波島付近と郷路(ごうろ)山から、砂利(じゃり)は裾花川から貨物自動車や砂利運搬馬車で運びこんだ。この工事中、九月一日の関東大震災によってセメントなどの諸材料の供給が途絶(とだ)え、ほかから集めるのに苦労したうえ、諸材料の価格高騰(こうとう)に悩まされた。市は商店の年末年始の商売に配慮して、十三年十一月末日までに完成すれば一万円の奨励金を出すことにして工事の促進をはかったところ、昼夜兼行の工事によって、三ヵ年にわたる大事業が竣工(しゅんこう)するにいたった。街路樹はプラタナスに決定し、六〇〇本購入して植えつけた。中央道路を横切る川にかかる橋は、末広橋・石堂橋・逢莱(ほうらい)橋・鶴賀橋・初音(はつね)橋と命名された。
中央道路の竣工式は、大正十三年十二月五日に終点である仁王門前で挙行し、城山グラウンドで竣工祝賀会を催した。市民は屋台を出して完成を祝い、夜は煙火を打ちあげた。
なお、路上電車敷設については、善光寺参詣者(さんけいしゃ)が長野駅から善光寺へそっくり運び去られると沿道の商家の死活問題になること、一直線になった道路は善光寺境内の延長と考えて公園道路のように美的価値を高めたいこと、などの理由から電車不要論が強まって敷設は保留となった。