信濃銀行の新設については、昭和二年(一九二七)六月、銀行の整理合同の機運に際会し、合併を予定する北信・東信の九行の当事者、県当局、日銀松本支店などのあいだで準備がすすめられた。現長野市域では、長野実業銀行(長野市)、綿内銀行(綿内村)、西条銀行(西条村)、小松原銀行(共和村)が関係しており、三年四月に柳沢禎三頭取(ていぞうとうどり)らを新たな陣容とする信濃銀行が発足した。
ところが、日銀松本支店報告(昭和五年八月)によれば、預金は昭和四年十一月の四〇〇〇万円を最高として減少傾向に転じ、五年三、四月は他行にくらべて顕著(けんちょ)な減少ぶりを示し、ついに十月には三〇〇〇万円に落ちこんだ。いっぽうで、貸出金の回収はそれに比べて思わしくなく、新規貸し出しのために借入金を増加させ、九月、十月にはその担保となる有価証券も売却して資金需要にあてざるをえなかった(表23)。
また、九月十六日の日銀松本支店報告によると、借入金は主に三菱(みつびし)銀行に頼っていたが、所有有価証券類はほとんど担保として利用しつくされて、限度いっぱいの状況となっていた。秋繭(しゅうけん)資金、年末資金の需要期をひかえて算段がつかず、重役の目には不安が宿り、銀行員のなかには容易でない事態と推察する者もいた。資本金一四〇〇万円の株式会社信濃銀行では、昭和五年十一月六日朝、上田市内の本店と各支店において預金者にたいする支払い猶予を発表し、同時に大口預金者にたいしては自宅を訪問して支払い延期をこい、小口預金者には店頭で了解を求め、開店のまま休業状態におちいった。
長野市では、信濃銀行に市税約六万円、県税約八万円、その他市教育会・市農会・体育協会・善光寺御開帳協賛会・愛国婦人会など七万円、合計二一万円の公金が預金されていた。この預け入れ責任者は市収入役であったが、市会議員のなかから委員を選出して研究会を設け、責任の所在を検討した結果、責任は収入役ではなくいっさい市にあると決定された。
また、産業組合関係で打撃をこうむった組合数は、更級郡一五、埴科郡一七、上水内郡一五、長野市三におよんでいる。現長野市域では、きわめて額の多い長野庶民信用組合(四六万円)を筆頭として、信田信用購買組合(四万三〇〇〇円)、共和信用販売購買利用組合(三万円)などがあげられる。
関係組合の総会では、善後策(ぜんごさく)を検討した結果、おおかたは理事または理事・委員一任と決まった。取り付け(預金者が払いもどしに殺到すること)が始まった当初は、組合員から組合幹部の責任を追求する火の手もあがったが、被害をこうむった組合の地元では、組合員自身が直接被害者になっている場合が多くみられ、また組合幹部と組合員とがいがみ合っていては組合の前途に暗影を投じ、重要な岐路に直面するおそれがあると判断されたため事態はおさまった。
県内の新聞は、六日から信濃銀行に関するいっさいの記事を差しとめられた。東京の経済新聞『中外商業新報』が信濃銀行の記事を掲げて発売禁止となって以来、まったく関連記事がみられなくなった。この差しとめは流言(りゅうげん)が飛びかう元凶(げんきょう)となり、「第十九も六十三も大同小異」とみられ、昭和六年四月末までの半年間に、六十三銀行は預金総額の四割強におよぶ一二〇〇万円が、第十九銀行は同二割に相当する約四〇〇万円がひきおろされた。
これにたいして、長野郵便局取り扱い郵便貯金の額は、昭和五年十月中に口数九三二七、金額十三万九千六百余円で前年同月に比べれば、一・七倍という莫大な増加率を示した。その傾向は、十一月に入っていよいよ甚(はなは)だしく、大口預金が増加しだした六日などは、突如一八一口、前日の三倍余の二万二千百余円という異常な高位を示し、七日も朝から預金者が殺到(さっとう)した。
昭和六年一月の第十九銀行の定時株主総会で、飯島保作頭取は、「前年繭糸価格が崩落(ほうらく)した結果、資金の需要は不足、例年貸出最高潮に達する十月にはかえって減少するという変調(へんちょう)をきたし、蚕種・肥料などの売れ行きも減退した」と、銀行の窮状(きゅうじょう)を説明した。こうしたきびしい経営状況は表24に反映されている。預金が四年をピークにして減っているのに比べて、貸付金は担保(たんぽ)を商品(生糸・繭)から不動産に切りかえつつ、にぶい減り方である。横浜への生糸出荷にとって重要な役割りを果たしてきた荷為替(にがわせ)取組高(貸付高)が五年には半減している。優良な貸付対象が少なくなったために、預金は有価(ゆうか)証券(所有高)に振りむけざるをえなかった。昭和三年には不良債権化した滞貸金(三一〇万円、貸付金の一割)の消却(しょうきゃく)を大規模におこなっている。それを契機に利益金が半減し、五年には四六万円に落ちこんでいる。
このように、経営基盤の動揺は六十三銀行でも同様であったので、両行は、合併を前提にそれぞれ資本金を半減し、第十九銀行はそれによって捻出(ねんしゅつ)された四三一万円余を、六十三銀行は三八二万円余を、諸積立金とともに不良債権の消却にあてた。合併によって生まれた八十二銀行の本店は長野市(従前の六十三銀行本店)に置き、同市内関係では六十三銀行横町支店が廃止され、昭和六年八月一日開業となった。八十二銀行の名称と同様、役員も親銀行である三菱銀行に一任し、創立総会で小林暢(とおる)頭取ほか役員が決定された。日銀関係者からは理想的な合併であると評価された。