満州移民と青少年義勇軍

369 ~ 372

長野県の満州(中国東北部)移民への本格的な取り組みは、昭和十年(一九三五)に開催された移植民協議会を契機(けいき)としている。そこでは、県独自の「満州信濃村建設計画」が立案され、翌十一年には、第五次黒台(こくだい)信濃村の建設として具体化し、現長野市域からは三五戸参加した。その後も満州信濃村建設計画はすすめられ、昭和十二年から十四年までの三ヵ年で三開拓団(第六次南五道崗(みなみごどうかん)・第七次中和鎮(ちゅうわちん)・第八次張家屯(ちょうかとん))が編成され、現長野市域からは総計三七戸が入植した。

 昭和十二年から十六年までの第一期五ヵ年計画の時期には、一県一村の信濃村建設とは別に、長野県からは一四の分郷(ぶんごう)開拓団が送出されている。そのなかで現長野市域が関係しているのは第九次尖山(せんざん)更級郷(ごう)開拓団、第一〇次東索倫河(そろんほ)埴科郷開拓団の二開拓団である。更級郷開拓団は、更級郡の二町二五ヵ村を中心とする開拓団で、昭和十五年に東安省宝清県(ほうせいけん)尖山に入植した。編成は難航したが、団長の教え子など幹部との人のつながりを頼ってようやく団組織が成立した。開拓地では北海道のプラオ式農法を導入して成果をあげたといわれている。現長野市域からの入植戸数は七九戸であった。埴科郷開拓団は、埴科郡四町一三村を中心とする開拓団で、昭和十六年に東安省宝清県東索倫河に入植した。埴科郷は、三ヵ年間に三〇〇戸を移民させる計画であったが、応募者が少なく、幹部には助役や学校長、青年団長などをあてで募集につとめた。昭和二十年の敗戦までに水田四四町歩、畑四五〇町歩の開拓に成功した。現長野市域からの入植戸数は三三戸であった。

 昭和十七年からの第二期五ヵ年計画中、長野県から送出された一〇開拓団のなかに第十一次珠山(しゅざん)上高井開拓団があり、現長野市域からは一二戸がこれに参加した。

 そのほか、長野市の翼賛(よくさん)壮年団が送出の中核となった農業未経験者を中心とする第十二次宝興(ほうこう)長野郷開拓団があった。募集は難航し、十九年十二月末現在、目標二〇〇戸にたいし六二戸の応募にとどまった。

 各開拓団では、昭和十九年ころから男性が軍に召集されるようになり、農耕は老人や婦女子だけとなった。二十年八月にはソ連の参戦があり、八月十五日の日本の無条件降伏によって、開拓地をあとにして逃避行(とうひこう)をつづけねばならず、その間、現地人の襲撃(しゅうげき)やソ連軍の略奪(りゃくだつ)と暴行、飢(う)えと病魔のなかで、幼児から婦人、老人へと弱いものから命を落としていった。応召した男子を除いて母国に帰国できた者は、更級郷で三人、埴科郷で一人、上高井郷で六二人で、開拓団の最後はまことに惨(さん)たんたるありさまであった。

 なかでも悲惨だったのは更級郷・埴科郷開拓団であった。逃避行中たどりついたのは佐渡開拓団あとで、ソ連軍に包囲されいっせい射撃を受け、小銃を手にした青年学校生徒、木をけずったやりを手にした小学生も学校長にしたがい、ほとんどの者が死亡した。重軽傷者は射殺され、生存者は、民家に押しこめられて手榴弾(しゅりゅうだん)を投げこまれて死亡した。また、戦争末期に、北埴松代青年学校から派遣された埴科郷勤労奉仕隊二二人も、逃避行中に本団と別行動をとり、幾多の辛酸(しんさん)をなめて五人の犠牲者を出している。


図43 東安省に入植した更級郷、埴科郷、上高井郷、長野村などの位置図
(『長野県満州開拓民入植図』の部分 宮沢正博提供)

 長野県が「民族的大使命」と「農村の経済更生」をねらいにして満州開拓青少年移民の募集を開始したのは昭和十二年七月であった。それは、十三年一月、国策としての「満蒙(まんもう)開拓青少年義勇軍」の制度が確立され、義勇軍送出の事業が始まる半年前のことであった。この結果、満一六歳から一九歳までの青少年一二九人が応募、県、国内の訓練を終え、十二年九月十四日、目的地の伊拉哈(イラハ)に到着した。この約百人の伊拉哈少年隊のなかに六人の現長野市域出身者がいた。

 義勇軍送出が本格化する昭和十三年一月、現長野市域にかかわる関係郡市の長野市・上水内郡・更級郡・埴科郡・上高井郡の五郡市の編成協議会が開催された。そのときの割当数と送出数(括弧(かっこ)内の数)は長野市一〇人(五)、上水内郡一九九人(一二九)、更級郡一五三人(七九)、埴科郡九〇人(七六)、上高井郡九一人(五三)であった。県全体として割当二五〇〇人のうち送出数一四二〇人を出し、それは全国でもっとも多い数であった。


写真136 城山国民学校での青少年義勇軍壮行式
(昭和19年3月23日)
(『長野県民100年史』郷土出版社より)

 昭和十四年度の第二次義勇軍の送出は、二月から八月にかけて選考がおこなわれ、現長野市域にかかわる関係五郡市の小計は一六八人であった。

 長野県は「紀元二六〇〇年」にあたる昭和十五年を期して義勇軍の送出について、三月七日付で県学務部長名で県民の奮起をうながす檄文(げきぶん)を発し、この年から信濃教育会ならびに各郡市教育会との連携を強めその募集に全力をそそいだ。新機軸の郷土中隊の編成にはとくに力点が置かれた。

 興亜(こうあ)教育大会が開催された昭和十六年度と翌十七年度は、長野県の義勇軍送出運動がもっとももりあがった時期であった。十六年度に義勇軍送出上、改革された点は、①送出を年一回とすること、②三〇〇人を集団とするブロックごとの三つの中隊編成をすること、③拓務(たくむ)訓練は教育会が中心となって実施し、訓練中に選考ができること、④郷土部隊には中隊長・教学指導員・農事指導員などを配置し、郡教育会が適任者を推せんすること、であった。現長野市域をふくむ北信一円は第三中隊に属し、中隊長は、上水内郡柏原村(信濃町)出身の教員、北村武であった。北村中隊は十六年六月内原(うちはら)での訓練を終え、東京で宮城を遥拝し、伊勢神宮に参拝のうえ、六月十八日松本市での長野県主催の壮行式に臨み、同月二十一日敦賀(つるが)港を発し渡満の途についた。隊員中には現長野市域出身者が九二人いた。北村中隊は満州東部の国境近くの東安省勃利(ぼつり)大訓練所に入所、慢性的飢餓(きが)状態のなかで約三年間農耕・建築・軍事などの訓練を積んで、十九年一月東安省宝清県北尖山に入植した。しかし、事業のなかばで兵役適齢期の団員はほとんど入営し、二十年八月のソ連参戦当時、団に残ったのは七九人であった。八月九日からのソ連参戦による逃避行は八月二十六日までつづき、その後シベリア抑留生活をへて、生存者は二十三年秋までには帰国した。

 なお、現長野市域の義勇軍参加総人員は一四九二人であった(図44)。全県での死亡・戦病死・行方不明者等の割合は二四・七パーセントで生還者率は七五・三パーセントであった。


図44 現長野市域5郡市の年次別義勇軍送出数
(『長野県満州開拓史』より)