戦時下の市民生活

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昭和十二年(一九三七)七月七日の中国盧溝橋(ろこうきょう)での発砲事件をきっかけに、日本と中国は戦争に突入した。八月には防空訓練を目的にした防護団が結成され、市は城山小学校で防空予行演習をおこない、全市に灯火(とうか)管制を実施した。政府は八月二十四日に「挙国一致(きょこくいっち)」の掛け声のもと、国民精神総動員実施要綱を決定した。これにより国民精神総動員週間が実施され、その一週間は「時局(じきょく)の話の日・出征将兵への感謝の日・非常経済の日・銃後(じゅうご)の守りの日・神社参拝殉国勇士(じゅんこくゆうし)を称(たた)える日・勤労報国の日・非常時心身鍛練の日」となっていた。また経済戦強調週間を設け、「物資の節約と活用・廃品回収・貯蓄実行・生活刷新・生産増進」を実践項目として、婦人会・青年団等を通して徹底をはかった。

 政府は、昭和十三年四月に国家総動員法を公布し、六月から勤労動員をはじめ、国民精神作興(さっこう)週間を設けた。十四年九月には毎月一日を興亜奉公日(こうあほうこうび)とした。この日を長野市では、早起き励行、国旗掲揚、戦勝祈願(せんしょうきがん)神社参拝、兵士への慰問文慰問袋作成、出征遺家族慰問、質素倹約(しっそけんやく)による生活改善(酒タバコやめ、宴会やめ、日の丸弁当)、国民貯蓄などの実行の日とした。子どもたちが学校へ持っていく弁当には、白いごはんの真ん中に赤い梅漬けを一つ入れただけの弁当で、国旗日の丸のように見えたので「日の丸弁当」とよばれた。「ぜいたくは敵だ」「日本人ならぜいたくはできないはずだ」「買わぬ決心、勝ち抜く決意」などの標語がつくられ、学生の長髪も禁止された。十四年に公布された警防団令にもとづいて、市の消防組と防護団を一本にして、防空・水火消防を任務とする長野市警防団を設置し、地域で防空演習をおこなうようになった。

 長野市では、昭和七年から夏期に一ヵ月実施していたラジオ体操の会に、十四年から市内学校連合体操大会を入れ、小学校六年生・青年学校生徒・中等学校二年生を参加させた。また、市民運動会を健民運動秋季練成市民体育大会と名称変更をした。さらに、市内男女青年団に銃後活動として、興亜奉公日の内容に加え、勤労奉仕、廃品回収、神社清掃、夜警、剣道・柔道・銃剣術・相撲・なぎなたでの心身の鍛練、出征兵士歓送、戦没兵士市葬参列をおこなうようにした。生産力を高めるための勤労奉仕は、田植え・除草、麦刈りと脱穀、桑園の手入れと収繭、稲刈りと脱穀(だっこく)、堆肥(たいひ)製造、薪(まき)取りなどがあった。市の男子青年団員は、昭和十五年に二四〇八人であったのが、応召・動員などにより十七年には一五六〇人となっている。

 政府は、昭和十五年六月に、切符(きっぷ)と購入通帳・購入券による生活物資の配給制度をはじめ、「売るにも買うにも分け合う心」「日の丸仰ぐ心に闇(やみ)はなし」などの標語をつくった。配給は、米一人一日三三〇グラム、小麦粉一人一日五六三グラム、酒一世帯一年に二升、砂糖年二回一人三六〇グラム、マッチ一人二ヵ月に小型一個、木炭一世帯年八俵、塩一人月二〇〇グラム、みそ一日六八六グラム、しょうゆ一日二六グラム(六六一ミリリットル)、油一世帯三ヵ月九〇〇ミリリットルというものであった。ネル、晒(さらし)、手拭・タオル、足袋(たび)・靴下なども配給切符がなければ購入できないようになっていた。


写真137 戦時下の衣料切符

 日中戦争勃発(ぼっぱつ)三周年記念日にあたる昭和十五年七月七日には、「七・七禁止令」といわれる奢侈(しゃし)品等販売制限規則が施行された。宝石・貴金属類は価格のいかんにかかわらず製造販売禁止、時計も輸入品販売禁止、着物・洋服・ネクタイ・ワイシャツ・靴・香水・万年筆から子どものおもちゃ、果物のメロンにいたるまで、定められた金額以上の高級品はすべて禁止となった。同年十月に大政翼賛会(たいせいよくさんかい)が発足してから、国民一人ひとりに直接、国家総動員体制が強化され、一〇戸内外の戸数を基準とする隣組(となりぐみ)が、すべての地域につくられた。市町村常会(じょうかい)整備要綱が訓令されると、市町村常会・隣組常会がつくられ、縦の統制組織がかためられ、毎月国策の徹底事項として、さまざまの指示・奨励・規制が伝達された。長野市翼賛壮年団も十六年二月十一日に結団式を行い、長野飛行場の草取り・農業勤労奉仕・金属回収などをおこなった。

 昭和十六年(一九四一)十二月八日に宣戦布告(せんせんふこく)をしてアメリカ・イギリス・フランス・オランダなどと戦争状態(太平洋戦争)に入ると、物資は極度に不足してきた。石鹸(せっけん)などは地方では月に一個の配給になったので、代用品として、米のとぎ汁・米ぬか・栃(とち)の実などを用いた。昭和十七年二月に食糧管理法が公布され、米のほか麦・雑穀・ジャガ芋も主食扱いとなった。日用品の供給は、戦時下でしだいに減少していった。なべは陶器に、スプーンは竹製に、バケツは木製になった。子どもたちには「欲しがりません、勝つまでは」、おとなには「月月火水木金金」の標語が流行し、耐乏(たいぼう)生活と労働強化をつづけることになっていった。昭和十二年を一〇〇とした場合の、日用品供給量の一部の移り変わりをみると表26のようである。日中戦争の始まった昭和十二年と太平洋戦争敗戦の二十年とを比べると、綿布は五〇分の一、毛織物・アルミ食器・銅鉄製品などは一〇〇分の一にもなっている。


表26 日用品供給量(指数)の移りかわり(昭和12~20年)

 昭和十七年一月からは、興亜奉公日を廃止して、毎月八日を「大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)」とした。この日各家庭では国旗を掲揚して、防空服装で神社参拝をおこない、米英降伏・必勝祈願をした。男性は戦闘帽(せんとうぼう)・国民服・巻脚絆(まききゃはん)(ゲートル)・防空袋、女性は防空頭巾(ずきん)・もんぺ・防空袋といった服装になった。敵性文字としてローマ字看板は撤去され、スポーツ用語の日本語化がすすみ、たばこもゴールデンバットは金鵄(きんし)、チェリーは桜などと改名された。

 昭和十八年には、「大東亜戦争」が長期戦になるからとして、勝ちぬくために食糧戦必勝態勢確立運動をはじめた。目標は、割り当て以上の決死的供出による食糧決戦供出、食糧の国内自給確保のための必勝増産、混食代用食による食糧規制、などであった。決戦食生活と称して、玄米食・混食・代用食が奨励された。「勝利の日まで節食生活」「自力補給で決戦食態勢へ」の標語をかかげ、とうもろこし・大豆・こうりゃん・さつまいも・カボチャ・大根葉・桑の葉・野草のよもぎ・あかざ・クローバ・はこべ、さらには藤蔓や令法(りょうぶ)(畑つ守(はたつもり))の木の葉まで食用とした。どんぐりは米の半分のカロリーがあるといって、学校の子どもたちに拾わせ、粉食化してあくをとり、他の食材とともに食糧とした。そして、そばくず汁・雑穀だんご・甘藷(かんしょ)だんごなどを、決戦料理・決戦郷土食などと称した。市民生活は悪化の一途をたどり、市民は違法を承知でも食糧を主とした闇物資の買い出しをせざるをえなくなっていた。

 十七年二月には、愛国婦人会・大日本国防婦人会・大日本連合婦人会が、高度国防国家建設のためとして統合させられて、大日本婦人会として発足した。十八年九月には二五歳未満女性の勤労挺身隊動員が決まり、応召によって男性の少なくなった職場に動員させられた。この年には金属回収令により、寺院の仏具や梵鐘(ぼんしょう)まで強制供出となり、十九年には長野駅前の如是姫像、長野高等女学校内の渡辺敏像も軍事供出させられた。

 十八年十二月に始まった大都市の学童の縁故疎開は、十九年八月には学童集団疎開となる。長野市にも多数の子どもたちが親元を離れて疎開し、旅館や寺院での集団生活が始まった。このころ「一億火の玉」「一億国民総武装」「撃(う)ちてし止(や)まむ」の標語をかかげて、窮乏生活のなかで決戦態勢に入っていった。